■Chapter:1 「もう、待たせてはくれないんだね」 気が抜けるようなまっさらな青空に、場違いな黒い「鳥」が一匹。空を鳥の形にくり抜いた機影は、吹き出る煙の尾を灰色に引きながら、面白いほどに綺麗なまあるい放物線を描いていく。それを眺めながら、ウィンリィはぽつりと呟いた。 言葉にしてしまえば、それが現実になることを、ウィンリィは身を以って知る。噴煙あがる廃墟と化した市街の真ん中で、澄み渡る青空を首が痛くなるほど仰いで、待たせてくれないんだね、と呟いた少女の身の内に立ち昇るのは、怒りでも諦めでもなく、ただひたすらに美しく透き通る、青い悲しみだった。 ゆらゆらと視界が揺れていく。薄墨に色を変えていくその放物線を、脳裏に焼き付けながら、なぜ自分は泣くのを我慢しているのだろう、とウィンリィはおかしくなってくる。 行かないで。 言う機会は無かった。あったとしても、きっと言えなかった己を自覚している。 いつも待ってた。約束などしていないのに、待っていた。彼は必ず帰ってきてくれた。機械鎧の整備師という立場の自分の元に。 だが、今その瞬間、ウィンリィには痛いほど分かってしまった。何も言えないまま、自分はその場所も失ってしまったのだと。 「ウィンリィさん……」 空を仰ぐ彼女の瞳が溶けるように潤んでいるのが、隣に立っていたシェスカにはよく分かった。晴れ渡ったその空と、涙に濡れたウィンリィの瞳の色は同じなのが、シェスカにはひどい皮肉に映った。 何を言えばいいか分からない。 シェスカは唇を噛んで、地面が醜く剥き出しになった足元に目を落とす。明るく振舞っていても、エドワードが消えてしまった日から二年間、ウィンリィは元気がなかった。無理矢理浮かべた笑顔に、薄く影がさしていたようにさえ思える。 ウィンリィは諦めきれずにいたに違いない。この二年間、彼を待っていた。だから、自分の身の丈はあろうかという大きな工具箱の中に、彼の腕と足を忍ばせていたのだ。待ち続けていたのだ。記憶を失ったアルフォンスが、兄を捜すための旅に出て行く背中をみながら、アルフォンスではなく自分が出来ること……旅に出るのではなく手と足を造って待っていること……を続けてきたのだ。 シェスカは俯いたまま唇を噛んだ。ほんの斜め前にある、つま先をそろえて立つウィンリィのその足元を見つめる。 諦めるんですか? 不意に落ちてきた疑問。まだ間に合うかもしれない。空に影を描くあの機体が行く先を走って、追って、捕まえるのだ。まだ諦めるのは早いではないか。……きっと間に合うはず……! だがしかし、ダメだ、とシェスカは心の中でぶんぶんと首を振った。 (そんなカンタンに、言えるわけがない) 待たせてくれないんだね、と言った彼女の言葉の、その静謐の深さに、シェスカは絶句するしかなかった。いつもの気軽さで軽率に言えるはずがなかった。 彼女が今までの生き方に、自ら終止符を打とうとしている。シェスカにはそう見えた。 それを、誰も止められずはずがない。 だけど、とシェスカは顔をあげる。 それで彼女は本当にいいのだろうか。後悔しないのだろうか。それは聞きたかった。 「ウィンリィさん…………」 ようやくシェスカが重い口を開いた時だ。 は、と息を詰めて、シェスカと、ウィンリィは前方の一点に視線を固める。 煙のあがる破壊された街並のはるか向こうに、何の前触れもなく黒い人影がひとつ現れた。エドワードが消えた方角から近づいて来るその小さな人影に、二人は思わず固唾を呑む。先に呟いたのはシェスカのほうだった。 「マスタング大佐……」 小さな影はどんどん近づいてくる。破壊された街と道路の真ん中を、たった一人で走ってくるのはまぎれもなくロイ・マスタングだった。ウィンリィはわずかに表情を強張らせて、駆け寄ってくる彼を待った。 見覚えのある少女と軍服の女を見て、息を切らしながらロイは足を止める。軍服を着た眼鏡の女はかつての親友の部下だった女だ。 「君は……」 シェスカの隣にいた少女に目を留めたロイは、一瞬惑うように視線を脇に逸らせた。 「マスタングたぃ……伍長!」 シェスカは言いかけた階級を慌てて修正する。ロイはそんなシェスカと、その隣で立ち尽くすウィンリィに眉をひそめた。 「ここはまだ危ない! 安全なところに避難しなさい」 そう言い置いて、ロイはウィンリィの脇を気まずそうにすり抜ける。隻眼の男が、さっきから自分のほうをまったく見ようとしないことが、ウィンリィに予感すら通り越した確信を囁く。 「……っ! 待ってください」 しかし、ロイは聞こえなかった振りをした。ウィンリィは工具箱を地面にドスンと置くと、待って、とロイをなおも呼んだ。 エドワードが隠れてろと叫びながら消えた方向から、今度はロイが現れた。待たせてくれない、という直感を確信に変えながらも、ウィンリィはロイを呼ばずにはいられなかった。 「ウィンリィさんっ!」 ぎょっとしてシェスカが頓狂な声をあげる。エドワードの機械鎧が収まっていた工具箱を放置したまま、ウィンリィがロイの跡を追いかけ始めたからだ。 「待って……今戻るのは危ないです!」 しかし駆け去っていく背中はあっという間に小さくなろうとしていた。シェスカは慌ててその背中を追いかけ始める。 背後の気配を察知したロイは、走りながらも背後に向かって怒鳴った。 「ついてくるんじゃない!」 「……っ」 怒鳴られただけで怯むウィンリィではなかった。軍人なだけあって足の速いロイを見失わないように必死に走る。唇を痛いほどかみ締めながら、その青い背中を追った。 馬鹿な……とロイは苦虫を潰したように渋面を浮かべながら、それでも走る速度を落としはしなかった。エドワードと、そしてアルフォンスと約束したのだ。向こう側とこちら側、二つの世界に出来てしまった扉を両側から破壊するのだ。この世界の扉の破壊を、ロイは決心して、走っている。 瓦礫の山で足場の悪くなった道をひた走って、ロイはアルフォンスに教えられた通りに道なき道を進んでいく。地下都市の中にアルフォンスが描いてしまった人体錬成のための陣、そしてそこに出来てしまった、異世界への扉の存在。 ハァッハァッ、と乱れた息が背後から聞こえてくるような気がした。ロイは構わなかった。気にしている場合ではないのだ。しかしどこかで薄暗い影が自分の中に落ちてきつつあるのを、同時に自覚していた。 そこに、アルフォンスが言っていた物はその通りにあった。息を少し切らしながらたどり着いたロイは、古びた石床の上に黒々と描かれた巨大な陣を、目を見開いて見つめる。 (これが、……人体錬成の陣……) 何度か見たことも描いたこともあった陣だった。あの東方のリオールの街でも見た陣だ。ロイもまた錬金術師である。軍人たるその業から逃れたくて、何度となくその錬金術最大の禁忌といわれている術を使おうとし、そして思いとどまってきた。 息を呑みながら、ロイはその錬成陣と構築式を見つめる。こんな陣を、ロイは描いたことがなかったからだ。 (これを使って、アルは扉を開けた……) もちろん、今、扉は閉まっている。あの巨大な機体に乗って、エドワードらはここからあちら側へと旅立ってしまったのだろう。遺跡にたちこめる黒い硝煙の匂いがそれを物語っている。 あの二人は、扉を破壊しろと言ったのだ。ロイはそれを承知した。悪用されては困るからだ。またあのように突然の襲撃があっては敵わない。だがしかし。 一瞬、暗い疑念がロイの胸のうちに宿る。 (何を錬成して、あけたんだ?) 思い至ってはいけない匂いのする事実に行き当たり、ロイはさらに息を呑む。喉はカラカラに干上がっていた。やってはいけないと伝えられ続けている錬金術最大の禁忌を、あの兄弟はまた犯したというのだろうか。 しかし、背後の気配に我に返る。 「こ……れは」 追いついたウィンリィは、肩で息をしながら、ロイの隣に並ぶように立ち、地面に大々的に描かれたその陣を見渡す。詳しいことを知っているわけではない。それでも幼なじみ二人が小さい頃から馴れ親しんでいたそれを、ウィンリィはよく知っていた。こんな巨大なものは初めて見たけれども。呆然とウィンリィは呟く。 「れん、せいじん……?」 ロイは人知れず、またひとつ息を呑んだ。 「そうだ」 そう言いながら、ロイは軍服のポケットから、いつも忍ばせている発火布を取り出し、身につける。 「さがっていなさい」 険しい表情でそれだけを言うロイと、巨大な錬成陣をウィンリィは交互に見比べた。 「何を……?」 するつもりですか、とウィンリィが問うよりも早く、ロイはぱちりと器用に発火布を指先で弾いた。ぎょっと目を丸くするウィンリィの蜂蜜色の髪が、一瞬にして爆風に煽られて後ろに激しくなびく。 橙の火の光が頭上いっぱいに落ちてきた。爆音に爆風、そして目の前の陣が描かれている敷石が爆破し跡形なく崩れていくその様を、ウィンリィは声もなくただ目を見開いて見つめるしかなかった。ロイが錬成した爆発は描いた錬成陣を地面の下から粉々に崩し、敷石は砂に還っていく。 「……まっ…」 ロイがもう一振り腕を前に突き出して、焔の錬成をしようとする仕草に、ようやくウィンリィは我に返った。思わずロイの傍に詰め寄り、声をあげる。 「待ってください、マスタングさん…!」 しかし、ウィンリィのその言葉尻は爆音に掻き消える。 耳を劈く轟音にウィンリィは思わず目を閉じた。閉じた瞼の裏に、閃光のような橙の光の海が焼きついて離れなくなる。 「あ、れ、は……」 立て続けにロイは錬成した。まるで逃げるように。 耳を両手で塞ぎながら、爆音と爆風に負けないようにウィンリィは声を張り上げた。 群青色の軍服の裾を豪快に翻させながら、ロイはひたすらに赤い閃光を浴びていた。しかしその顔に落ちる光はどこか暗い。 ウィンリィは予感に震えながら問いただした。破壊するものがついになくなり、ロイが錬成する手を止めた時がようやく訪れたときには、すでにもうすべてが遅いのだと痛々しく感じていた。 「あれは、……エド達が来た場所なんですか」 ロイは眉間に険しい皺を刻みながら、押し黙る。ウィンリィはその横顔を睨み上げた。 「ウィンリィさん、マスタングた…伍長」 不意に、背後から声が落ちる。ようやく追いついたシェスカが、息も絶え絶えに二人に近づく。 「一体、何を……」 シェスカはくるりと辺りを見渡し、地下都市の中で粉塵のあがる広い一角を前にしてたたずむ二人の男女を見比べた。 「答えてください、マスタングさん」 問い詰める声が、心なしか震える。 それを耳にしながら、嗚呼、とマスタングは目を閉じる。 彼女もまた、喪失したのだ。 「あれは錬成陣だった。……教えて、エド達と何か関係あるものだったんじゃないですか」 「……」 押し黙るロイと、詰め寄るようにロイを睨むウィンリィを、シェスカはおろおろと見比べた。ひとつまみの疑念を確信に変えて、ウィンリィは答えようとしないロイを睨む。 「答えてください」 お願い、と言ったウィンリィの声はすでに涙声だった。 ロイは唇を噛む。彼女に対して、ロイは人並み以上に特別な感情を抱いていた。もちろん、それは男と女の恋愛感情、という意味ではない。 (この子はまた失ったんだ) 発火布を着けた手を拳に変えて、ロイはゆっくりと目を開く。視界の斜め下に蜂蜜色に揺れる髪がある。かつて、この少女の大切なものを奪ったことがある。それなのに、自分はまた彼女のその喪失を、告げなければならない。 (罰だ。これは) 自分もまたかつて親友を失った。その親友に心の中でそうだよなと語りかけて、ロイはようやく、見上げてくるウィンリィを見返した。 「その通りだ」 「……」 「あの錬成陣を使って、鋼のは帰ってきた。……そして、また行った」 少女の瞳は空色だった。その大きな瞳が丸い大きな水溜りのようにゆらゆらと蒼く揺れ始める。 「扉は向こう側とこちら側、両方から開けられたという」 「……」 「あの二人に、頼まれたんだ。あの二人はあちら側の扉を破壊するから、私はこちら側の扉を、と」 ロイは跡形もなく崩れ去った陣の跡に、漆黒の瞳を走らせた。陣は破壊した。向こう側のそれもまた、あの兄弟が破壊してくれているだろう。これで、この世界の安寧は約束される。だが。 (だが、この少女は?) この少女の安寧はどこにある? ロイの胸に宿るその痛みは、同属憐憫とは言えない気がした。 この少女が待っている人間はまだ生きている。だが、もう戻らない。生きているのに、死んでいるようなものだった。 ロイの言葉の意味のすべてを、ウィンリィは即座に悟ったようだった。 震える唇を押さえるように噛み締めて、ロイから一瞬顔を背ける。足元に落とした蒼の眼差しは不安定に揺れた。 「ウィンリィさん……」 顔を蒼白にさせたウィンリィに、同じように顔色悪く事実を告げたロイ。どう声を掛けて良いものやら困惑するシェスカは、倒れそうなウィンリィに思わず駆け寄る。 「……もう、会えないんですね」 シェスカの手を払いながら、気丈にウィンリィは立ち続けた。俯きながら彼女が発したその言葉が疑問なのか、確信なのか、諦めなのか、ロイには判別つかなかった。 「……ああ、そうだ」 扉は開けられない。開けるには人体錬成と、その陣が必要になる。そして、それが出来るだけの錬金術師。 「アルも、エドも、一緒に行ったんですね」 「ああ」 そう、とウィンリィは笑おうとした。最愛の兄との四年間の記憶を失ってもなお、諦めずに兄を探して放浪しつづけたアルフォンスは正しかったのだ。そして、二人は一緒に消えた。自分の前から。 震える少女を見ていられなかった。何を言ったら慰めになるのか、ロイには全くわからなかった。粉塵の匂いが立ち込めるこの場で、ロイは思いつくままに言葉を口にする。 「『ありがとう』と」 「……」 「鋼のが、言っていた」 「…………」 ふる、と少女の頭が揺れる。それを見ながらロイは続けた。 「機械鎧をありがとう、と」 う、と膨れあがった嗚咽は始まりだった。膝を崩すように地面に少女が座り込む。ロイは手を貸さなかった。……手を貸せなかった。 生きながらに、彼は死んだのだ。彼女にとって。会えないということは、そういうことだ。 なにが…、と、地面をぎゅっと握るように拳を作ったウィンリィは嗚咽の合間に言葉を漏らした。 「なに、が……ありがとう、よ……」 シェスカがおろおろとウィンリィの脇に座って彼女を伺う。地についた手にぱたぱたと丸い跡がいくつも浮かんだ。 空色の瞳からポタポタと雨を際限なく降らしながらウィンリィはぽつりと漏らした。 「いつだって、勝手なんだから……」 それでも、待っていた。目的のために進む彼らをサポートすると決めたのは自分なのだから。見返りが欲しいわけではなかった。約束を交わしたことなど無かったはずなのに、機械鎧そのものが、その証になっているような気がしていたのだ。その居場所にいて、彼を支えられているならそれで充分だと思っていた。 それなのに、彼がもう待たせてくれないと知って、身を切るように思い知る。それがどういうことなのかと。 「ウィンリィさん……」 顔を覆って泣き崩れるウィンリィに、シェスカは何と言っていいかわからなかった。先ほど、「あれ、エドだ」と言った時のどこか諦めたような彼女とは違う彼女がそこにいた。 彼女が漏らす嗚咽の合間から、シェスカは聞いてしまう。「行かないで」と。 シェスカは今にも泣き出しそうにクシャリと表情を崩した。しかし、やはり何を言っていいかわからなかった。泣き出したウィンリィのその言葉がシェスカの胸にざっくりと刺さった。 |