例えば、
あの晩、囁くように会話を交わした時。
例えば、
あの夕闇の中、ランプを手に待っていてくれた時。
例えば、
朝陽の中で、白い光に包まれながら手を振って見送ってくれた時。
どうしても、思い出せない。
お前の、顔。
『エド、見て?ほら、流れ星。』
月明かりの無い夜に、
ベッド脇の窓を見上げながら彼女が声を上げた。
『綺麗、だね』
そうだな、と答えて、
彼女の顔を自分の方に向かせる。
『目ぇ、閉じて?』
そう囁いたら、
彼女が言われたとおりにするのを暗闇の中で感じ取る。
好きだよ、という言葉は口にしない。
その代わりに、唇に託す。
闇夜の下ではあまり多くを言葉にはしない。
触れて溶け合う熱や、行き交う息遣いを全身で受け止める。
目を閉じていても闇。開けていても闇。
全身が目になって、闇に溶けた彼女を求める。
……それなのに、今はどうだろう。
エドワードは何度目か分からない寝返りをうち、
そして、不意にむくりと上体を起こした。
「眠れねぇ………」
呟いた言葉は闇に音も無く溶けていく。
エドワードは目をごしごしと左腕でこすった。
目を閉じていても、開いていても、
すぐ側にあったはずのあのぬくもりを確かめることはもう出来ない。
それくらい、分かっていた。
ベッドから起き上がり、
あてがわれた部屋から廊下に出る。
自室と同じく明りの灯されていないそこはひたすら暗闇だけが沈んでいたが、
エドワードの目は、細い橙の光が一本、廊下に伸びているのを捉える。
ぎしぎしと床を軋ませながら、
手探りをするようにして、その光のほうへと足をのばす。
部屋の中では、明りの下で何かを熱心に読むホーエンハイムがいる。
エドワードはそれを見止めて、踵を返そうとした。
しかし、気配を察知したのか、
ホーエンハイムは振り返る。
「エドワード。…眠れないのか。」
後ろを向きかけた体を戻して、
エドワードはまーね、と小さく呟く。
ホーエンハイムは読んでいた本をぱたりと閉じる。
そして、カップにコーヒーを注ぐという作業を片手で器用にこなしてみせる息子を
じっと眼鏡の奥から見つめた。
「そんなの飲んだら、余計に眠れなくなるぞ。」
「いーよ、別に。」
ティースプーンでかちゃかちゃと音を立てながらかき混ぜて、
エドワードはカップを手にとる。
ふと顔を上げれば、
カーテンの開け放たれた窓から、月の無い夜空が見える。
墨を流したようなその空には淡い星の光がちりばめられている。
……参った。
エドワードは、コーヒーをすすりながら、目を伏せた。
部屋を照らす橙の淡い明りを、カップの中のコーヒーが鈍く反射するのを眺めながら、
エドワードは必死になって思い出そうとしていた。
消える流れ星を見ながら『綺麗、だね』と言った彼女の顔は、どんな顔だった?
眉をしかめながらコーヒーを口にするエドワードを見て、
ホーエンハイムは軽く息をつく。
そして、書棚から一冊の本を取り出した。
「…なんだ?」
差し出された本に思考を中断されたエドワードはぽかんとする。
「お前、探していただろう。偶然、見かけたんでね。」
買っておいた、と呟く父親に、エドワードは息を詰らせる。
正直、エドワードはホーエンハイムのことがあまり好きではなかった。
大嫌い、というわけではなかったが、
母親を捨てた男に対して長年積もり固まった感情は
一緒に暮らし始めてもそう簡単に氷解しない。
しかし、ほんの数年前まで抱いていたストレートな感情は
徐々に解かれつつある、というのもエドワードは自覚していた。
複雑な気持ちに駆られながらも、
エドワードは本を受け取ろうとする。
カップを窓の桟に置き、
差し出された本に手を伸ばそうとしたとき、
エドワードの目に、銀色の鈍い輝きがささる。
「あれ……」
エドワードは目を丸くした。
本の表紙を突き出すようにして差し出された父の指に、
銀に光る指輪がはめられていたからだ。
「それ……」
エドワードの視線にホーエンハイムも気づく。
こっちに来てから、身につけるようにしてるんだ、とホーエンハイムは静かに言った。
「ふぅん…。」
エドワードは複雑そうに、
だが静かに相槌を打った。
エドワードはふと思いついて、
指輪に視線を落とす父を真っ直ぐに見詰める。
「母さんの写真、持って無いのか?」
エドワードの問いに、ホーエンハイムは静かに首を振る。
「持ってないよ。」
一枚くらいは手元に残しておくべきだったかなぁ、
とホーエンハイムは苦く笑う。
「まさか、もう会えなくなるとは、思わなかったんだ。」
エドワードは目を伏せた。
母を捨てた奴だと自分がずっと恨んでいた父のその言葉は
どことなくエドワードの気持ちに波風を立てたが、
そのことについてどうこう言うつもりは無かった。
……自分も、同じだ。
エドワードは苦いものを呑むように眉をしかめた。
まさか、こんなことになるなんて思わなかった。
死ぬつもりで、弟を取り戻そうとして錬成に挑んだ。
それが、こんな形で、今も自分は生きている。
弟を元に戻してやれたかもわからない。
何もかも中途半端に残してここに来た。……彼女のことも。
「不思議だよなぁ。」
ホーエンハイムは、自分の指に視線を落としながら笑うように穏やかに言った。
「写真は無いけど、トリシャの笑ったところは思い浮かべるんだ。
口元のところが、ふわって笑う、あの一瞬だけ。」
あの一瞬だけ、まるでループを描くように、何度も何度も繰り返し…ね、と
ホーエンハイムは呟くように言う。
「………オレは、逆、だ。」
「え?」
息子の言葉に、ホーエンハイムはきょとんとする。
エドワードは窓の外の闇夜に目を移す。
「オレは、笑ってる顔がどうしても思い浮かばない。」
さっきも、夢を見た。
白い光の中で手を振りながら彼女が泣いてる夢。
なんでだ?…現実でのあいつはいつも笑ってたはずなのに。
朝陽の中で、自分と弟を見送る時の彼女はいつも笑顔だったはずなのに。
なのに、笑った顔が思い出せない。
だから、恐い。
泣いてるんだろうな、と思うと、いてもたってもいられなくなる。
「…トリシャがかい?」
ホーエンハイムの問いに、慌ててエドワードは首を振る。
「ち、違う。」
エドワードはホーエンハイムから視線をそらして、躊躇うように口にする。
「お、幼馴染の話、で。」
なんでこんな話をしてしまったんだろう、
とエドワードは顔が赤くなってくるのを感じた。
恥ずかしくて、その場にいるのがいたたまれない心地になってくる。
ふむ、とホーエンハイムは眼鏡をずり上げる。
そして、わずかに考え込んだ後、
コーヒーを持って立ち去ろうとするエドワードに言葉を投げた。
「それは、お前が迷路にいるからじゃないか?」
「…………は?」
迷路?と立ち去りかけていたエドワードは
ホーエンハイムの言葉に振り向く。
「私の場合は、もうトリシャには会えないと分かっているからな。
……どうしても、……自分の都合の良いことばかり
都合の良いように、……思い出す、のかもしれない。」
もう思い出だからだな、とホーエンハイムはさらりと感情の篭らない声で言う。
「………」
思い出…?
エドワードはその単語を心の中で反芻する。
それは、どこか符号の合わない、不愉快な響きがした。
だけどお前は違うだろ、とホーエンハイムは軽く笑う。
エドワードが手にしている本を指差す。
「探すんだろう?帰り方を。迷路なら、絶対にゴールがある。」
ホーエンハイムはそう言って、
もう寝なさい、と諭すように言葉を継いだ。
エドワードはその言葉に押されるようにして、部屋を後にする。
自室に戻り、
エドワードは受け取った本をベッド脇の棚に置く。
部屋の中はやはり闇と静寂に沈んでいて、
抜け出してだいぶたったベッドの中はすでに冷たい。
それに腰掛けるようにして、
エドワードは闇を正視した。
瞳をとじてみる。
『綺麗、だね』と言った彼女の、あの時の顔を思い浮かべようとした。
笑ってたのか?本当はないていなかったか?
闇の中で何度となく彼女を確かめたはずなのに、
哀しいくらいに不確かで曖昧な像しか結ばない。
その時、不意に脳裡に甦ったのは、
黄昏に染まるあの懐かしい村で、明りを点滅させながら
自分と弟の帰りを待つ彼女だった。
一直線に繋がる道の向こうで、
夕闇の中、光だけが儚く点滅している。
それはとても頼りないけれど、とても暖かい。
それだけでよかった。
あの光が路を少しでも明るくしてくれるなら。
何も約束はしていない。
だからこそ。
エドワードは閉じていた目をゆっくりとあける。
くすんだような群青色の部屋が、目に飛び込む。
朝になったんだ、とようやく自覚して、
エドワードは立ち上がった。
冷めたコーヒーを一気に飲み干す。
かたんと音を立ててカップを置いて、
隙間から光を零すカーテンに手をかける。
思い切りカーテンをひくと、
白い太陽の光がさぁっと部屋に入り込み、
窓辺に立つエドワードを飲み込む。
思わずエドワードは瞳をとじる。
とじても、そこは、明るかった。
白い光に包まれたあの村の路の先に、彼女が居る。
そこまでたどり着いてみせるから、
だから、頼むから、笑っていて。
一番に、お前の笑顔を思い出せるように。
エドワードは目をあけ、踵を返す。
この迷路から抜けるために。
お前の笑顔に辿りつくために。
だから、そこにいて。
息を一つ落として、
エドワードは本を手にとる。
朝食までにはまだ時間がある。
それまでに、この本を読んでしまおう。
ベッドに腰掛けたエドワードは、
本をぱらりと開き、
字に目を走らせ始めた。
(fin.)
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<後記>
2万hit有難う御座います!(深々)
リクエストを有難くも頂いてしまいましたので、書かせて頂きました。
……エドウィンに…びみょーになってないようななってるような、
そんなホントに微妙な話になってしまいました。す、すみませ…っ!!
頂いたリクエストはたくさんあったのですが、
その中から「瞳をとじて」という曲から連想されるお話を、というのを
私が選ばせて頂きました。…それなのに、なんだこれは、というか。
歌のイメージに合ってません。というか、むしろ、反してないか…?
本当は他にもリクエストがあってそちらにも心がかなり動かされたのですが、
歌からストーリーをイメージするなんてやったことが無かったので、
面白そうだと思って選択したのが運の尽き…。
せっかくリクエストくださったぷーにゃん様…こんなものを返してしまって本当に申し訳ありません。
力量不足です。精進します。でも、初めての試みでしたので、
本当に面白かったです。悩まされましたが、面白かった。うん。
小説について;
平井堅の「瞳をとじて」ですが、
何度聴いてもどう聴いてもお別れソングにしか管理人には聴こえず、
お別れから連想するもの………てアニメか!という短絡思考から出来上がりました。指輪のネタは完璧なる捏造です。あんな設定は原作もアニメも見たところ無いです。が、話のとっかかりがほしくてあえて書きました。
死という絶対的な別れではないけれど、
それでもそれに近い状況にあるエドとウィンリィですが、
(しかもウィンリィはエドが生きてるって知らないですし)
それはやっぱり死別ではない、だから希望がある、という
ある意味では非常に残酷な(笑)エールを送るホーエンハイムを実は書きたかった、というのもあったり。
アニメのランプちかちかするネタ、すんごく好きで。
あれ、ウィンリィを象徴してるよなぁと。
それを絡めた話も書いてみたいと思っていたところでしたので、
つぎはぎのように書きたいものを並べたらこんなものが出来ちゃったよ…みたいな。
エドが路を探す者なら、路を探し彷徨う者の光となってほしい、という
ウィンリィへの管理人の勝手な希望もこめて、書かせて頂きました。
お読みいただき、本当に有難う御座いました。
……3万台に行く前にあがってほんとーッに!ヨカッタです…。ほ。
2004.12.28
karuna 拝
2004.12.29
すみません…推敲段階の部分がそのまま重複して残っているのをあげてしまっていました…訂正しておきましたのでお知らせします。