サンプル:「あなたを堕とすたったひとつのアリア」
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 ふと目を開けると、雪男がいた。
「ゆき……お」
 燐は掠れた声で、弟の名を呼ぶ。どうしたんだ、俺は。わけがわからなかった。なぁ、雪男。俺、すげぇ怖い夢みたんだ。痛くて怖くて、悲しくて、とにかく、辛い夢なんだ、と雪男に訴えたかった。
 弟のほうへ手を伸ばす。しかし、伸ばそうとした腕は途中で手折れた。伸ばそうとした手をガチャリと何かが邪魔する。あ、と燐は小さく声をあげた。己の手首に、鎖が巻き付いていることにようやく気付いたのだ。
 ベッド脇に腰かけた弟は、「だいじょうぶだよ」と言った。その弟の顔には、ポツポツと赤い飛沫が付着している。それが己の血であることを燐は瞬時に理解してしまった。夢は夢ではなかったことも。
「兄さん。……大丈夫。処置はしたから。死んだりしないよ」
「……ゆきお…」
「ごめんね」
 雪男は両目を伏せた、低く詫びた。
「こんな目に、遭わせて、ごめん……兄さん」
 燐はぼんやりと霞がかる意識の中で、雪男の目にうっすら涙が浮かんでいることに気づいた。
「どう……したって……いうんだよ……」
 昔の泣き虫が戻ったみたいだ。燐は思わず笑いたくなる。へへっ、と何も知らない子供の頃のように。
「いま、治療用の処置を施した。……兄さんの体力なら、すぐに回復できるから」
 そう言いながらも、雪男の表情は暗い。回復はするとは言っても、味わう痛みは常人と同じなのだ。……それなのに、兄に無体をした。そして、これから行うことも、兄に無理を強いるものだ、と雪男はよく理解していた。しかし、仕方ないのだ。もう後戻りは出来ない。この詠唱を見せてしまった以上、エンジェルのように兄の命を命とも思わないような輩にどういった使い方をされるかわからない。だからそうなる前に、雪男は決断しなければならなかった。
「兄さん。……ごめんね」
「なんで、あやまるんだ、そんなに」
「うん……ごめんね」
「傷なら……このとおり」
 燐は健気に雪男に傷の具合を見せようとする。しかし、その手には鎖が繋がれたままだ。
 こんな目に遭わせたくなかった。雪男は後悔の只中にいた。悪魔用の実験台に人間である兄をのせてしまった。そして、サタンの致命詠唱にも通ずる詠唱で、今また雪男は燐を傷つけてしまったのだ。守ると誓ったはずなのに、逆のことをしてしまっている。
 それは、昔々のことだった。雪男が祓魔師になるために勉強を始めたばかりの頃。雪男は義父である藤本獅郎の本が収められていた修道院の地下室から、秘密の書物を偶然引っ張り出したのだ。
 それが、どういった効力を持つ詠唱なのか、幼い雪男にわからなかったのは当然だった。というのも、所蔵していた藤本獅郎でさえ、知り得なかった効力だったからだ。
 祓魔師になるためには圧倒的な量の知識が必要だった。だから雪男は日々書物を読んで勉強を積み重ねていたのだ。
 その日、偶然引っ張り出した書物を、雪男は偶然にも声に出して読んでしまった。その偶然の重なりは、今となってはもはや定められた運命と結論づけるしかない。
 雪男が詠みだすと同時に、傍にいた燐が倒れたのだ。全身から血を噴き出して、意識を失ってしまった。異変に気付いた雪男は義父を呼んだ。義父の処置は的確だったおかげで、その日燐は死ぬことを免れたのだ。
 その出来事によって、雪男は燐に致命傷に近い傷を与える呪文を知ってしまった。呪文は、詠唱というと、そのあと知ることになる。義父が亡き今、雪男のみがその事実を知っていたのだった。
「兄さん」
 雪男はまた繰り返した。
「ごめんね。……兄さん」
 ひたすら謝る弟を、燐は不思議な面持ちで眺めた。弟がここまで謝る理由がわからなかった。確かに一瞬、ひどい痛みがあったのは確かだ。しかし、次の瞬間、それは消えていた。燐は思考をくるくると巡らせ始める。
 先ほどとは打って変わった様子の弟がいた。エンジェルと並んで自分をモニタから見下ろしていた弟とは違う。燐はわけがわからなかった。ごめんねと繰り返す弟と、あのモニタ越しに見下ろしてきた弟は同一人物なのかと。
 もうだめだと絶望していたのだ。雪男にすら、見捨てられたと思った。
「俺……お前が、わかんね」
 燐はボソリと言った。
「うん」
 雪男は頷いた。
「わかんないと、思うよ。兄さんには」
「なんだ、それ」
 燐は眉根を寄せ、弟の言の意図を汲み切れずに困惑の表情を浮かべる。そんな兄を雪男は真っ直ぐに見つめた。
「わからなくていいと、思ってた。……今までは」
「いままでは?」
 そう、と雪男は兄の言葉に頷く。そう、今まではそれで良かったのだ。兄に理解してもらえなくても良いと。兄に伝わらなくともよいと思っていた。積年の禁じられた想いは、ふつふつといまも雪男の中に降り積もりながら、それでも雪男はその想いに蓋をする。想いが漏れないように、溢れないように、自分を律して、我慢して、自分の感情から目を逸らし、兄を守っていこうと。そう思っていたのだ。
 だがしかし、今、状況は大きく変わってしまった。
「ごめんね、兄さん」
 また謝る。そして、雪男は立ち上がった。そして、常に携帯している銃をホルダーから抜く。
「雪男……?」
 燐はベッドの上から雪男を見上げる。そんな兄を、雪男は見つめた。兄に対する愛おしさで頭が沸騰するほどに眩暈を覚えながら。
「ごめんね。兄さん」
 これからすることを、どうか許して。
 雪男は手にした銃をすっと頭上に掲げた。ためらいもなく発砲する。
「なッ……!?」
 驚いた表情を浮かべる燐の目の前で、発砲されて破壊された天井モニタの欠片がぱらぱらと宙を舞った。
「これで、兄さんとふたりきりだ。鍵も閉めたし、誰も邪魔できない」
「なに、言ってんだ……?」
 燐には雪男がしようとしていることがわからなかった。縛られた腕は自由がきかず、ベッドに横たわった無防備な姿で、雪男を見上げる。
(この想いに蓋をする、……はずだったのに)
 よもやこんな形で、暴かれることになろうとは。
 しかし同時に雪男の身の内には、どうしようもなく抗えない熱が滾り始めていた。ずっと蓋をしていて我慢してきた。そのタガが「兄を守る」という大義名分の元に破れ、公然と雪男を支配し始める。雪男を常々苛んでいた、兄が欲しい、という欲望がむくむくと疼きだしていたのだ。
 雪男はおもむろに、燐の身体の上にまたがる。燐の瞳が大きく見開いた。
「ゆっき…おっ…! お前、何を……ッ」
 ごめんね、と雪男はまた心の中で謝った。そして、驚きの表情を浮かべたまま自分を見つめてくる兄の顔を見つめる。
 僕はただ、兄さんを守りたい、それだけなんだ。
 まるで誰かに言い訳するように、そう胸内でひとりごちて、雪男は燐の顔に顔を近づけた。
「!! やっ……めっろ…!!」
 のけぞって逃れようとする兄の身体を押さえつける。そして、その唇を奪うように、己の唇を重ねたのだった。




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