シュレディンガーの猫は泣く
―A Cat of Schrdinger calls, shouts and cries.―
introduction
■鋼エドウィン+ロイ NovelsOnly /¥150
■仕様:A5版サイズ28頁/表紙1color/コピー本
■本文:小説2段組/縦書き
■劇場版後話になります。

「だから、あなたに会いにいく」


―――終焉はすぐそこまで影を落としていた。
しかし、彼女にとって、それは終焉などではなかった。
始まりだった。
だってね、と言う彼女の唇はもう音を作っていなかった。
「だって、分かっちゃったんだもん。
あのひとがいる場所がどこなのか」
 だから、と、彼女は笑んだ。
濁りゆく空色の瞳は、
もうエドワードを映してはいなかった。
だからね、と唇は謳った。

 だから、あなたに、会いにいく。




■本文サンプル

 何かの見間違いかと、その時エドワードは思った。
 朝靄がまだ幾らか残るドイツ・ベルリンの肌寒い月曜の朝。一日を始動させた街は徐々にその喧騒を大きくしていこうという、緩やかな時間の移りの中で、エドワードは懐かしい蜂蜜色の髪に出会う。
「……?」
 建物の合間を縫うようにして走る道路を、忙しなく人や車や馬車が行き交う。しかしまだ人の足がまばらな歩道の真ん中に、金髪を揺らせた白い帽子の女が立ち止まっていた。その時は何も思わなかった。金髪の女なんてその辺にいくらでもいるのだ。それでも、面影があまりに似すぎていたせいだろうか、エドワードはふと足を止めたのだ。
 白い帽子は軽く空を仰ぐそぶりを見せた。そして、一瞬の間があった後、蜂蜜色に揺れる髪はゆるやかに放物線を描く。エドワードは目を見開いた。
声はあげずに、思わず走り寄っていた。
 道の真ん中で、女がひとり、倒れた。

 それが、出会いだった。




*中略*



 そうだ、と何かを思い出したように、彼女はエドワードに、なぞなぞしない? と言い出した。
「なぞなぞだ?」
 その気がなさそうに本を読むエドワードに対して、半ば強引に、彼女は本を閉じさせる。
「シュレディンガーさんが言ってたことよ。興味あるんでしょ?」
 どこか逆らえない空気は、「彼女」にそっくりだ、とエドワードは思いながら、降参だよ、とばかりにテーブルに肘をついた。で? と彼女の顔を覗き込む。
「なぞなぞって?」
 覗き込んだ彼女の顔に、幾らか朱がさしたように見えた。え、とエドワードはドキリとする。オレ、何かしたか? と問う間もなく、彼女は慌てたようにおもむろに大きな声を出した。ね、猫を箱に入れるの、と。
「とても元気な子猫を一匹よ。そして、箱の中に、一緒に毒ガスを発生させる装置を入れるの。毒ガスが箱の中に充満する確率は五十パーセント。一時間後に、箱の中をあけて、中の猫を確認するっていう実験」
 さて問題、と彼女はどこか楽しそうに言った。
「箱の中の猫は死んでいると思う? 生きていると思う?」
 くだらないクイズだ、とばかりに、エドワードは即座に答えた。
「確率の問題だろ。……五十パーセントの確率で、猫は生きてるか死んでるか、どっちかだよ。答えなんてねぇよ」
「正解よ」
 彼女はどこか嬉しそうにそう言った。
「でも、箱の中を確認するまで、猫は生きてるか死んでるか分からない。猫は生と死の世界、両方に存在しうるのよ。箱をあけるまで、誰も答えは分からない。それでも、答えは五十パーセントの確率で、箱をあけなくてもすでに決まっているのよ」
 どこか自嘲めいた口調で、彼女は声弱く続けた。
「……もう答えが決まっているなら、箱をあけるのは怖いって思っちゃうわ。まるでパンドラの箱よりも始末悪いじゃない」
 エドワードは眉をちょっとだけ顰める。必ず災いの入っているパンドラの箱と、生もしくは死というどちらか一方の結果しかない猫の入った箱。彼女はパンドラの箱のほうがマシだというのだ。
「そうか? パンドラの箱には絶対不幸が入ってるだろ?」
 そうよ、と彼女は力強く頷く。でも、あたしはパンドラのほうがマシだわ、と。
「だって、災いが入っていた箱の底にひとつ希望が残っているパンドラの箱と違って、猫の入った箱には、希望か絶望のどちらかしか無いんだから」
 彼女は寂しそうに言葉を続けた。
「もう中身は決まっているのに、あけるまで分からないなんて、なんだかずるいわ。……だったら、あけたくない。小さくても希望の入ったパンドラの箱のほうが、絶対マシよ」
そう言って、彼女はコーヒーを啜った。窓ガラスに映った彼女の眼差しは、どこか頑なに冷えているように、エドワードには見えた。


*中略*



「なんでお前が」
 カフェにやってきたマスタングは、あけすけに嫌そうな顔をする。それに、エドワードは憮然とした表情を浮かべた。
「彼女から頼まれたんだ。あんたから手紙を受け取ってくれってな」
 マスタングはちらりとピナコの顔を一瞥するが、ピナコは反対を見せなかった。しぶしぶ、という形容が相応しい表情を押し隠そうともせずに、マスタングは手紙の束を渡す。エドワードは、どうも、とそれを受け取ると、窓辺に面したテーブルで、彼女がそうしていたように宛名ごとにそれを振り分けた。ピナコはそんな彼の横に、そっとコーヒーカップを置く。
 手紙は、という彼女に、無い、と告げるのは、想像以上に酷なことだった。
彼女が見せる一瞬の落胆振りは凄まじい。それをひしひしと感じるから、エドワードはいたたまれなかった。しかし、彼女はすぐさまに思い直したように、いいのよ、とエドワードに言う。約束なんてしてなかったの。だから、届かなくても平気なの、と。
「ごめんね」
 意識を取り戻したあと、すぐさま、彼女はエドワードに謝った。
「なにが」
「変なこと、言ったから」
 医者が帰ったあとも、エドワードは彼女の部屋に残っていた。ベッドに寝かしつけられた彼女は、どこをどう見ても病人でしかなかった。物の少ない部屋は薄暗く、あまり生活感が感じられない。向こう側の「彼女」とは対極的な部屋に、エドワードは声を失った。
「謝るくらいなら」
 エドワードは努めて静かに言った。
「言うな」




続きは本文で。



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