Melissa
introduction

■鋼エドウィン NovelsOnly /¥1200
■仕様:A5版サイズ148頁(表紙込)/表紙フルカラー+マットPP
■本文:小説2段組/縦書き
■大人向。18歳未満の方の購入はご遠慮ください。
■表紙絵協力:なーさん(白昼夢茶店)



―――決して出会えないと思っていた旅人とメリッサは、
世界の終末の日に邂逅するの。
救われないと喘ぐ旅人に、一度だけメリッサは姿を現す。
赤い一輪の花になって、旅人の前に花を開く。
そんな、伝説。



「誰かを殺さなくたって、
エドはあたしを守ることが出来るのに。どうして?」

「伝説というのは
人の意思や願望を常に内包しながら伝えられるものだ。
……娘は何かを知っているはずだ。それを探れ」

「時に、ホーエンハイムのアンダーボスに
恋人が出来たという噂をよく聞くのだが」

「その女の名前。メリッサという」

「あなたを恋人にすることで、
あなたに手を出させないようにしているのよ。分かる?」

「そうしたら、あたしがあんたを治してあげる。
殺さなくてもあたしを守れる方法を、教えてあげる。
あたしが守ってあげる」

「母さんでも、ボクでもなく、
そういう人が兄さんには必要だとずっと想ってたんだ」

「おまえに会えて、オレ、
やっと人らしい気持ちを思い出した気がするんだ」

「おまえは、そんな花になんかならなくていいから…、ただ傍にいてくれ」



 その時、なぜそうなったのか。
エドワードには分からなかった。
エド? と彼女が少しだけ目を丸くする。
エドワードは目を細める。
彼女の腰に手を回したまま、もう片方の手をウィンリィの頬へ。
指先でついと頬を上下に撫でて、緩やかに瞳を伏せていく。
彼の影がウィンリィの顔にかかったが、彼女は逃げなかった。
導かれるようにウィンリィもまた目を閉じる。
呼吸するのを忘れたのは、
時が止まったように錯覚したからかもしれない。




■本文サンプル■




「護衛なんて要らないのに」

 とりあえず自己紹介だとばかりに名前を名乗ると、兄弟二人を前にした彼女の表情は曇った。エルリック兄弟。その名前なら聞いたことのある者も多いからだ。ウィンリィ・ロックベルよと名乗った少女は、青い大きな瞳を瞬かせながら、唇を尖らせて心底不愉快だと眉をひそめてみせた。そんな彼女を前にして、エドワードとアルフォンスは後ろに手を組んで肩を竦める。

 ロックベル家に通された二人だったが、先客が居た。
 よく磨かれた木製の丸テーブルにはお茶が運ばれていたが、エドワード達はテーブルにはつかない。ティーカップを啜る少女の向かいには既に、黒い制服を身に纏った男と、群青色の軍服を纏った男が座している。二人の顔を見たエドワードはあからさまに眉を顰めてみせた。

「何してんだ? ダグラス大尉はともかく。……何でアンタがここにいる? マスタング大佐」
「ご挨拶だな、エドワード・エルリック」

 カップを持ったまま、黒髪黒瞳の男、ロイ・マスタングは軽く笑ってエドワードをちらりと見た。

「君こそ何用だ」
 エドワードはロイを軽く睨み付けた。二人の視線が音も無くぶつかる。まぁまぁ、と間を取り持つように相互を見比べるのは憲兵のダグラスだ。

「親父の遣いでお悔やみを言いに来ただけだ」
「それだけじゃないんでしょう」

 エドワードの言葉に噛み付くように、少女は彼を真っ直ぐに見上げた。
「連絡なら受けたわ」

 アルフォンスはちらっと横に立つ兄を見た。エドワードは少し目を細めて、腕を組んだまま、ウィンリィを見つめ返す。

「それなら話は早い。あんたの両親を殺した奴が分かるまで、あんたの傍に張り付かせてもらう」
「なぜ?」

 問い返して来たのはロイだった。

「親父の命令でね。古い友人の孫を守って欲しいんだとさ……あんたこそなんでここにいる? 警察の仕事は管轄外だろ」
「私も上からの命令でね。……今回の殺人事件の捜査指揮をとる。それでこちらのお嬢さんに捜査のあらましを説明していたところだ」

 エドワードは眉根に皺を刻む。なぜ軍人であるロイがわざわざ出張るのかが分からない。しかし、彼の思考はウィンリィの声に遮られる。

「護衛は要らないわ。……犯人はマフィアなのかもしれないのでしょう?」

 彼女は唇を噛んでわずかに俯く仕草をみせる。

「……こんな時に。無神経だわ」
「……」
「お父さんとお母さんがマフィアと繋がりがあるわけない」


 暗い表情を浮かべたまま低く呟くウィンリィをエドワードは見下ろした。アルフォンスの懸念は当たってしまっていたことを悟る。

「だがしかし、エルリック兄弟の腕は確かです。……ロックベルさんはご存知ないかもしれませんが」

 庇うように言葉を並べるのは憲兵のダグラスだった。ダグラスはホーエンハイムとは色々と繋がりのある仲だ。エドワードは黙ってダグラスの言葉を聞いた。

「そこまで言うなら……」

 彼女はどこか怒ったように、ダグラスを睨み付けた。なぜ憲兵がマフィアを庇うのだろうと、不審に満ちた視線を投げる。

「あなた達が守ればいい。この人達じゃなくて」
「残念ながら……」

 ダグラスは言葉を濁した。

「我々では動くことが出来ないのです」

 なぜ、とウィンリィは眉を顰める。

「憲兵ってのは、根本的に何か事件が起こらないと動けない。……そうだろ? ダグラス」

 説明しにくそうに口を閉ざしかけたダグラスに代わって、エドワードは言葉を継いだ。

「せめて、あんたが殺されることはないという確証を得るまで、オレ達が動く。何も無ければそれでよし、何か出てきたら憲兵の出番。それでいいだろ」

 ウィンリィはエドワードを睨む。しかし、ふいっと視線を外すと俯き加減に椅子を立ちあがる。

「……好きにすればいいわ。どうせ反対したって、もう決まってるんでしょ」

 そう言い捨てて、立ち尽くすエドワードとアルフォンスの横をすり抜けるようにして彼女は部屋を出て行こうとする。部屋の扉の前でウィンリィは立ち止まると、くるりと振り向いた。

「エルリック兄弟って……」

 え? とエドワードとアルフォンスは振り向く。揃いの動作で見返してくる二人にウィンリィは交互に視線を向けたあと、投げつけるようにエドワードを睨んだ。

「弟より兄のほうが小さいのね」

 は、とエドワードがぽかんと目を丸くするのを最後まで見届けずに、ウィンリィは扉をバタンと閉めて出て行った。

「おい、アル」

 エドワードはドアを睨んだまま、傍らに立つアルフォンスの名を不機嫌そうに呼んだ。

「アレが可愛いか?」

 親指でくいっと差した方向にもちろんウィンリィの姿はない。ちらりと横目でみやれば、車中の会話を思い出したのか、アルフォンスは首をすくめた。

「可愛いんじゃない?」

 お前の趣味がわかんねぇ、とエドワードは盛大に顔を顰める。
そんな二人の背中に、くつくつと低い笑い声が刺さる。エドワードは嫌なものを思い出したとばかりに渋面を作ったまま、バカにしたような忍び笑いを漏らすロイを振り返った。

「……いや失敬」

 ロイは笑いを堪えるように口元に手をやりながら、謝っているとは全く思えない口調で、睨んでくるエドワードを見返した。

「何が狙いだ?」

 軍関係者が憲兵隊の仕事に出張るというのはそうそうあることではない。エドワードはロイの向かい側に陣取るように腰掛けた。

「言ったろう。上からの命令だと。それ以上でもそれ以下でもない。そちらこそ何を考えてる? ホーエンハイムとロックベルが旧仲にあるとは知らなかったぞ」
「オレも知らなかったんだよ」
「ついでにあの子が幼なじみだってことも」

 アルフォンスの言葉に、ほう、とロイは目を細めた。エドワードは眉を顰める

「そんなことより。あの女の両親はなぜ殺された?」
「君達のほうが知っていると思っていたのだが?」
「殺ったのはオレ達じゃない」

 ロイの言葉を否定しながら、エドワードはその隣のダグラスを見る。

「だろ?」
 ダグラスの表情はあまり動かなかった。彼はエドワードの言葉に肯定は示さないが否定もしない。ダグラスはセントラル東地区を管轄する憲兵卒で、東を主にシマとしているホーエンハイムとは懇意な仲にあることはエドワードもよく知っていた。

「なぜ君の親父はこの件に首を突っ込む?」
「さぁな? 奴等が絡んでいると踏んで、一枚噛んでおこうって魂胆だとは思うが」

エドワードの言葉にロイは瑪瑙の瞳を細めた。

「つまり君達は、ロックベル夫妻を殺したのはケルスス側だと言いたいのかね?」

 エドワードとアルフォンスは首を竦める。

「親父は明確にそうだとは言わなかった。オレ達も殺ってない。医者夫婦が汚れ稼業をしていたというのなら奴等に殺されたかもしれないし、何の関係もないならただの通り魔の犯行。……さて、どれがお好みだ?」

 逆に問い返されて、ロイもまた肩を竦めた。

「とりあえず、オレ達はあの女の傍に付く。あんた達が犯人捜しをするか、こっちがあの女の傍を固める必要がないと分かるまで、だ」

 親父の命令だ、とエドワードは面倒臭そうに言い捨てた。
 ロイは息をついて、そうか、と一言漏らすと椅子から立ち上がる。ダグラスも倣うようにテーブルから離れた。

「まぁ、私には一弔問客をこの家から追い出す権限は無いのでな。好きにするがいい」
「あんたに言われなくても……」

 エドワードはテーブルに手を組んだまま、ロイを目だけでちらりと見上げた。

「そうさせてもらうさ」

 ダグラスを従えたロイは無言でエドワードを一瞥すると部屋を出て行く。

「ああ、そうだ」

 扉を出て行く間際に、ロイは黒コートを脇に抱えたまま部屋の中を振り返った。

「また今度どうだね? 次こそ清算つけたいところだが」

 真正面からロイを見据えた。ふ、と目を細めたエドワードは、いつでも、と口端に笑みを引き結ぶ。

「貸しが増えるだけだと思うけど、それでもよければ?」

 彼の言葉にロイはただ目を細めるだけで、無言のまま部屋を後にした。
 ロイの背中が扉に消えるのを見送ったアルフォンスは、くるりと部屋を見回す。ロイと入れ替わるように部屋に入ってきたメイドの一人が二人の前でお茶の準備を始めた。それを一瞥して、アルフォンスは考え込むように黙りこくった兄にちらりと視線を移す。

「ここって、昔来たことあるってことだよね?」
 メイドが頭をさげて退室するのをアルフォンスは見送ってから、用意された紅茶に添えられたミルクを足し始めると、エドワードは少し嫌そうな顔してそれを眺める。視線に気づいたアルフォンスは、要る? とミルクの入った陶磁の小瓶を悪戯っぽく兄に示すと、いらねぇよ! と顰め面が返ってきた。

 スプーンでくるくるとお茶とミルクを混ぜ合わせながらアルフォンスは改めて部屋を見回す。
「あんまり記憶にないなぁ。何歳位の頃なんだろ?」
「オレも記憶に全く無いぞ。ついでにあの女の記憶もさっぱり無い!」

 断言する兄にアルフォンスは苦笑を浮かべる。

「でも小さい頃、母さんが連れてきてたんでしょ? 兄さんに記憶が無いなら、ボクなんて余計あるわけ無いよ」

 ちょっと違うんだよな、とエドワードは腕を組んで、なにやら思い出そうと眉間に皺を寄せる。

「本当は、アヤフヤにちょっとだけあるんだが、こう……」

 エドワードは手振り身振りで説明を加えようとする。
 白い記憶の中に少女がいる。そして、何かを囁くのだ。舌たらずな口調で、何かを言っている。しかし、聞こえない。思い出せない。

「なんというか、あんなんじゃなくてだな、オレの記憶の中ではもう少しおしとやかだったっつうか、女らしかったっつうか、可愛げがあったつうか……」

 言いながら、エドワードは湯気の立つカップを手にとる。曖昧な記憶の引き出しが断片的にあるのだが、引き出しの開け方を忘れてしまったらしい。何かを思い出しかけるのだが、記憶に霞が掛かったようになっていて、うまく思い出せない。つい最近、どこかで見た気がするのに。思い出した気がするのに。

「誰が可愛げないですって」

 ぎょっとしてエドワードは啜っていた紅茶を吹きそうになる。危うくカップを取り落としそうになってヒヤリと背筋が冷えた。見れば、部屋の扉の前に身軽なワンピースに着替えたウィンリィが立っている。

「あー……」

 なんだその、とエドワードが取り繕おうとする前に、ティーカップを置いたアルフォンスが立ち上がる。

「よろしければピナコさんにもご挨拶したいんだけれど」

 ウィンリィは立ち上がったアルフォンスを見上げて、それから座ったままのエドワードに視線を移す。

「……本当にあっちが兄のほうなの?」

 また言うか、とエドワードはむっとした。アルフォンスはまたしても苦笑いを浮かべる。そしてまだ得ていない返答を促すようにウィンリィのほうを見つめた。
 誤魔化せないようね、とばかりにウィンリィは一瞬だけ暗澹とした表情を見せた。

「今は駄目だと思う。部屋から出てこないから……」

 だから、ロイやダグラスの応対も、屋敷の女主人であるはずのピナコではなく、ウィンリィがやっていたのだ。合点のいったアルフォンスは、控えめに瞳を伏せた。

「そっか……」
「ダグラスさんに呼ばれて、……お父さんとお母さんを確認して帰ってきてから、部屋に閉じ篭ってしまって」

 エドワードはウィンリィの言葉を耳だけで聞きながら、カップを静かに置く。表情はどこか暗い。

「だから……落ち着くまでは他人にかき回して欲しくない」

 ウィンリィは顔をあげて、きっぱりと言う。それは至極当然の言い分だった。エドワードもアルフォンスもそれ位は分かっている。
 エドワードはこっそりと瞳を伏せた。この家全体に、どこか重苦しい空気が落ちている。見ないようにしようと思っても、それを許さないかのようにあちこちにちらついていて、嫌なことを思い出させる。

「でもとりあえず、さっき執事さんの許可は貰っちゃったんだけれど……」

 アルフォンスの言葉に、ウィンリィは少しだけ悔しそうに唇を噛んだ。

「ホーエンハイムが、って煩いんだもの」

 アルフォンスは肩を竦めた。ここでも父親の名前の影響力はあるらしい。

「とにかく、お父さんとお母さんが、あなた達と関係ないって証明されたら、さっさと帰って」
「そのつもりだよ」

 エドワードはすかさず言葉を返した。兄さん、とアルフォンスは咎めるように兄を見る。ウィンリィは彼を睨みつけた。金色の瞳と空色の瞳が音もなく空気中で噛みあった。
 しかし、一瞬の沈黙の後、ウィンリィはふいと視線を外した。背中まで届く蜂蜜色の髪をひと括りにした彼女は、くるりと金髪を躍らせて踵を返す。

「部屋を用意させたわ。そっちを使って。明日はセントラルの病院に行くつもりだから」

 そう言い置いて、ウィンリィは部屋を後にする。

それを横目に見送って、エドワードはぼそっと呟いた。
「可愛くねー女」

 そんな態度とらなくても、とアルフォンスは兄を咎めようとする。彼女は両親を亡くしたばかりなのだから。
 しかし、テーブルに視線を落とす兄の表情がひどく暗いので、アルフォンスは何も言えなくなる。

「兄さん?」

 弟の視線がなんとなく煩わしくて、エドワードは誤魔化すようにカップを口につけようとする。しかしそれは空っぽだった。それに気付いて、エドワードは軽く舌打ちする。
全てが煩わしかった。



 
 ロックベル邸に夜が訪れる。
「ウィンリィは?」

 あてがわれた部屋は二人で一室だった。部屋の扉が開く気配にアルフォンスは振り向かずに問う。兄かどうかは見なくても足音で分かるからだ。

「風呂、らしい」

 アルフォンスの問いにエドワードは顔を顰めてぼそっと答える。メイドに追い出された、と。
 椅子に腰掛けたアルフォンスは、テーブルの上に銃を置き、軽く手入れを施しているところだった。
 二人は交代でウィンリィの近辺に付くことになった。今はエドワードの番だったはずなのだが……とアルフォンスは手は動かしたまま、視線だけを兄に向ける。見れば、部屋内に二つ据えられたベッド脇のクローゼットに兄は近寄るところだった。

「兄さんも手入れしておいたら」
「んー……あとでな」

 面倒だと言外にいいたげな声が返ってくる。上着を脱いでクローゼットの中に仕舞い、ウェストコートのみになると、エドワードはアルフォンスに向かい合うように座る。エドワードの肩にはズボンを吊るサスペンダーとは別に銃を収めるホルスターが装着されている。

「……一応、邸外にリン達を配置させているけれど」

 そう言いながら、アルフォンスは手にした布切れで銃身を拭く。

「いいんじゃないか」

 そう返すエドワードの言葉はどこか上の空だった。

「どうしたの?」
「いや別に」

 エドワードは弟の手元に視線を投げる。

「お前、全然、錬金術使わなくなったよな」
「そうだっけ」

 二人とも父の影響で始めたのが錬金術だった。連日兄弟揃って、父の書斎に入り浸っていたものだ。その場に父はいないことのほうが多かったが。むしろ、エドワード達は、母親が生きているうちは、父に会うことは滅多になかった。

(使う理由も、もう無いか)

 人を殺す方法なら幾らでもある。母が死んだ今、錬金術は、殺しの方法のうちの一つでしかなくなってしまった。
(小さい頃は色々造ったのに)
 初歩的な入門書から専門的な本まで、母が住んでいた家にはたくさんあった。母はそれらの本を読むことはもちろんなく、全て父のものだった。しかし、父が滅多に姿を見せなかった頃、兄弟二人してその本を貪るようにして読んだのだ。新しい錬金術を習得しては、母に披露した。動物を象った模型や、種子から咲かせた花々を戯れに錬成してみせると、母はそれをとても喜んでくれていたものだ。

『守ってあげてね』

 母はよく言った。例えば弟を。お兄ちゃんなんだから、と。
その時、不意に蘇った記憶にエドワードは、あれ、と思考を停止させる。

『なんでも、できるの?』
舌ったらずな声が脳裏に弾ける。
『じゃあ、このおにわ、いちめん、お花ばたけにしてみせて?』

(……あれ?)
 くるくると忙しく笑みを浮かべるあの少女は誰だったか。その傍らには弟がいて、母がいて、知らない女性がいる。丸い陽だまりの中で暖めておきたいような、そんな小さな記憶の断片。

「……兄さん?」

ぼうっとしている兄を、アルフォンスは心配そうに見やる。昨夜の仕事を終えてから、やはり兄は疲れているのだろうとアルフォンスはふんでいた。またよく眠れなかったに違いない。一番最初の仕事の時もそうだった。兄は殺しをした後の夜、寝つきが悪くなるようなのだ。

「大丈夫? ボクが見てこようか?」

 そろそろお風呂も終わるんじゃないの、とアルフォンスは壁に掛けられた古時計に目をやる。弟の声を耳にして、エドワードは一瞬不思議そうな表情を浮かべる。夢か現か判断つきかねないものを見た、とでも言いたげに、呆けた表情を弟に差し向けた。

「……大丈夫?」

 本気でいささか心配になってきたアルフォンスが、銃を手入れする動きを止めて兄の顔を覗き込む。

「……ああ。大丈夫だ」

 ハタと我に返ったエドワードは、慌てて立ち上がる。

「ったく」

 首を回しながらエドワードは小さく悪態をついてみせる。

「とっとと終わらせたいぜ、こんなの」

 調子が狂うんだよ、とぽつんと言って、エドワードは部屋を出る。そんな兄の背中をアルフォンスは黙って見送った。
 そう、こんな仕事は恐らく初めてだ。人を守れ、だなんて。今までずっと、それと正反対のところで生きてきたのに。


 湯船に入ってから数十分。ウィンリィはもう充分だろう、とふんでいた。身体を洗う時はメイドがついてくる。しかし今日ばかりは、メイド達に手伝いは不要と言い置いた。
ウィンリィが使う浴室は、元々は客室用の部屋を改装してバスルームにしたものだった。お湯の張られた陶磁色の浴槽のすぐ脇には、カーテンが掛けられてはいるものの、大きな窓がある。明るいクリーム色と花柄の壁紙で装飾された部屋は明るい。そこは衝立を使って間仕切りをし、バスルームと衣服の脱ぎ着をする空間とに分けられていた。衝立より向こうは絨緞が敷かれた通常の部屋になっている。

 浴槽一杯に張られたお湯は、レモンのような匂いがする。湯気の立つ透明なお湯の中に白い肢体をくまなく浸しながら、ウィンリィはふと、レモンバームだわ、と入浴剤に使われている植物の名前を思い出す。その名の通り、フルーツのレモンに似た酸っぱい匂いが心地よく、ハーブや植物油としてもよく利用されている。

 浴槽に身体を浸して、レモンの匂いがする水を両手で掬う。指の間から温かなお湯がぱたぱたと零れて、水玉色の音を奏でた。
 一人になる時間と場所が欲しかった。
 ウィンリィは水を掬っては零し、掬って、また零した。昼間、変わり果てた両親と対面した時に大泣きしたのに、まだ足りないらしい。一人になって初めて襲ってくる空虚な感情に、ウィンリィはどうしたらいいのか分からなかった。
 ただ、自然と、涙が溢れてくる。

 それを水で誤魔化して、一人でこっそり泣いた。メイドに見られるのは不愉快だった。そして、静かにこの空虚感と向き合おうとしていた矢先に現れたあの二人。ウィンリィはなぜだか腹立たしかった。いや、誰かに怒っていないと、自分の感情の糸がぷっつりと切れてしまいそうだったのだ。

 あの二人が悪いのだ。自分は狙われているかもしれないなどと勝手なことを言って。
ウィンリィは湯船の中に肩から唇の先まですっぽりと沈めて、眉を顰める。
実際、そんなことがあるはずがない。自分の父と母は立派な医者だ。セントラルでも医院を開いて、街の人間からは篤い信頼を得ていた。評判のオシドリ医者夫婦。ウィンリィもまた医者になるべく学校に通っていたが、そんな両親が自慢だったのだ。つい先日学校を卒業して、晴れて二人の下で医者として本格的に働こうとしていた矢先の悲報。

 マフィアなどと繋がりがあるはずがない。狙われる理由があるはずがない。政府の研究機関からの招聘で研究員としても活躍していたほどだったのだ。その研究内容も、薬用植物の効用と栽培についてのものだとウィンリィは聞いていた。例えば、今湯船に使われているレモンバームもそのひとつだ。そのせいでいつも多忙な二人だったけれども、帰らない日は無かった。

 しかし、昨日は違った。
父も母も、帰ってきてはくれなかった。そして、司令部で立ち会った二人の無残な姿。ウィンリィはきゅっと唇を噛んだ。知らせを聞いた時はただただ信じられなかった。今も信じられない。

 遺体を前にして人目憚らず泣きじゃくった。信じることの出来ない現実を前にして膝を崩し、泣けども泣けども涙が枯れなかった。そんなウィンリィに、ロイとダグラスはマフィアとの繋がりはなかったのか、デリカシーもなくウィンリィに聞いてきたのだ。そして、あの二人が来た。
(やっぱり、帰ってもらおう)
 ウィンリィは浴槽からあがる。
護衛など不要だ。両親はマフィアに狙われるようなことはしていないはずなのだから。二人を殺した犯人は別にいる。マフィアとは関係ないところで、今もどこかに潜んでいるに違いない。そうに違いないのだ。

 白い肢体を温かな水が滑った。タイルの上を濡れた素足で踏むと、ぱたぱたと丸い水滴が落ちる。
 メイドが衝立に掛けておいたバスタオルを取ろうと手を伸ばす。
「?」

 ウィンリィの動きは一瞬止まる。誰もいないはずなのに、誰かがいる気配がしたのだ。
(そんなはずない)
 温かな湯気に満ちた部屋が、急に寒々しい空気を這わせ始めたような気がしたのは錯覚だろうか。濡れた体をそのままに、ウィンリィは息を詰めた。
 何かがいる気がする。

 背筋がヒヤリと冷える。お湯からあがったばかりなのに、身体が冷えて仕方なかった。寒気に身をひとつ震わせて、そぞろに這う予感めいたものに怖くなる。なんでもない、なにかあるはずもない。あの二人が悪い。何でもないのに、狙われているなんて言って自分を脅かして。何もあるはずないのだから。護衛なんているからヘンな気持ちになるのだ。そう言い聞かせながら、ウィンリィはするりとバスタオルを衝立から引っ張って取り上げようとした。
 その時だった。目の前に何か黒いものが飛び出してきた。それはとてつもなくタイミングが悪かった。ウィンリィは思わず、声をあげていた。


 あてがわれた部屋からウィンリィが使用している浴室まで行くには、屋敷の中央階段を使って一階まで降りていかなければならない。エドワードはやれやれ、とばかりに首を回しながら赤い絨緞の敷かれた階段を一段ずつ下りる。先ほどはけんもほろろに、浴室前の扉にたつことをお断りされてしまったのだ。

(あんな可愛げない女、殺そうとしたって死なねぇんじゃねぇか?)

 そんなことを、半ば本気で思っていたその時だった。聡いエドワードの耳は、その悲鳴を拾ってしまう。
 女の声。方向は先ほど追い返された部屋。エドワードは瞬時に答えを弾き出す。弾き出す前に、身体が動く。肩にさげていた銃を引き抜き、一気に階段を駆け降りる。
玄関前のホールを走りぬけ、奥まった廊下を脱兎の如く走り去る。知った部屋までの距離はそう遠くない。目指した扉は開いていて、脇に一人のメイドが立っている。

「何があった……!?」
 メイドはぎょっとして、口角から泡を飛ばす勢いで、エドワードを押し留めようとする。しかし、エドワードには敵わなかった。

「おい……ッ!」
 メイドをおしのけて部屋に飛び込む。エドワードはすっかり忘れていた。そこがどこなのか。
「え」
 ウィンリィは一瞬、何が起きたか分からなかった。
ただ、目の前に男がいる。
身体がヒヤリと冷えて、それと同時に目を丸く見開いた。

「あ」
 エドワードはようやく事態を飲み込む。彼の目はウィンリィのそれに負けず劣らず皿のように丸く見開かれて、その金の瞳は上から下へとしっかりと動いて、彼女の肢体をなぞっていた。それさえもウィンリィの瞳にはきっちりと映る。
 彼女の顔に瞬時に朱が立ち昇った。その刹那、もう一度同じ位鋭い悲鳴が響く。それに重なるように、肌を強く張るようなか細く鋭い平手打ちの音がひとつ、空気を裂くように痛く鳴り響いた。


「今からあたしより一メートル以内に入ってきたら容赦しないんだから!」
 ウィンリィはカンカンだ。頭から湯気が立つのではないかというほどの怒り様だった。
赤く腫れた頬をさすりつつ、仏頂面を造ったままウィンリィに反論せずにつっ立っているのはエドワードだった。指の跡がくっきり浮いているのではないかと思えるほどに赤くなってしまった頬を見て、やれやれ、と肩を竦めるのはアルフォンスだ。

「ホント最低だわ! 守ってくれるはずの護衛が覗きなんて!」
「……っあのなぁ!」

 人聞き悪いことを言うなよ、とエドワードは頬を押さえたままウィンリィを睨む。

「誰がおまえの裸なんか好きこのんで見るかッ! いちいちそんなコトで騒ぐな! だいたいおまえが紛らわしい悲鳴をあげるからだろ!」
 なんですってぇ! とウィンリィは眉を吊り上げ応論しようとするが、まぁまぁ、とアルフォンスが兄を抑える。

「最低だわ!」

 ウィンリィは乾ききっていない髪をバスローブを羽織った肩に垂らしたまま、エドワードをひと睨みした。

「やっぱり護衛なんて要らないわ! 明日の朝になったらキッチリ帰ってもらうんだから! そのつもりで!」

 ウィンリィはそう宣言すると、背中までおろした蜂蜜色の髪を振り乱して、寝室の扉を大きな音を立てて閉めた。ガチャリと錠の落ちる音が続く。
「……あの女、鍵閉めやがったぜ」

 ここにいる意味がねぇだろ! とエドワードはさらに眉根に皺を刻む。
彼女の部屋は二部屋続きだった。寝室に繋がるドアの前にはソファやテーブルといった調度品がこぢんまりと置かれた空間がある。身辺警護として屋敷に留まった二人は、その居間に通されたのだ。

 暖炉の上に置かれた写真立てを手に取りながら、アルフォンスは頬を赤くさせたまま仏頂面を作ってソファに座る兄を眺めた。

「あんなコト言ってるけど。どうすんの」

 兄さんのせいで信用ガタ落ちだな、とアルフォンスは冗談めかして言う。

「うるせぇよ、アル」

 ソファに身を預けたまま、エドワードは弟をねめつける。
 だいたいどうすりゃ良かったんだ、とエドワードは腹が立つのを押さえられない。その場で瞬間的に目でも閉じればよかったか? オレは見てない! と。しかしエドワードはしっかり見てしまっていたのだが。

「元気な子だね、ホント」

 写真立てを指先で撫でながら、アルフォンスは軽い口調で言う。彼の視線の先には家族の集合写真があった。椅子に座る夫人、その夫人の横に立つ夫、そして、夫人の膝に抱えられるようにして抱かれた、ドレスに身を包んだ幼い少女。下がり気味の目尻は無邪気な笑みをたたえている。幸せそうな家族の憧憬がそこにあった。

「……どうかな」
「え?」
「なんでもねぇよ」

 エドワードは口を噤む。浴室で遭遇した時の彼女の眼に浮かんでいたものを思い出してしまったからだ。錯覚ではなかった。それもあって、実は少し気まずい。
「で、結局なんだったの?」

「犬だ」
「犬?」
 エドワードはきょろきょろと辺りを見回す。
「犬がいたみたいだ。風呂場に」
「なんで?」

 オレに聞くなよ、とエドワードは口を尖らせた。
「急に飛び出してきたみたいだぜ。で、驚いて悲鳴をあげた、と」

 こんくらいの白と黒の犬だ、とエドワードは両手を使ってアルフォンスに示す。
「妙に怯えて、オレの足元すり抜けて逃げていきやがった」

 覗いたのはオレじゃなくてその犬だっての、とエドワードは思ったが、口には出さない。
「何も無かったならそれに越したことないけれど」
「そりゃそうなんだけどな」

 エドワードは一瞬だけ憂鬱そうな表情を浮かべる。
「どうしたの?」
「いや、別に」

 ソファに背中を預けるようにしてエドワードは軽く伸びをする。
「この仕事、続けられそうになくなった?」
「誰に言ってんだ、お前?」

 だって、と肩をすくめてみせるアルフォンスはどこか楽しくて仕方のない、と言った笑みを口元に浮かべる。

「……いつもと勝手が違うだけだ」

 兄の言葉に、一瞬アルフォンスは真顔になる。そうだね、という声は低かった。

「……リン達に調べさせてはいるけれど、ケルスス側が噛んでいるという確証はこれといって見つかってないみたいだ」
「……憲兵のほうの動きは」
「特になしって聞いてる。でも、ただの街医者夫婦が死んだだけで、マスタング大佐のような佐官級の軍人が捜査指揮に招聘される必要があるとは思えない」

 エドワードは弟の顔を真っ直ぐに見る。部屋に灯された明かりは薄暗く、光と闇の陰影が絨緞の敷き詰められた床の上をゆらゆらと揺れている。エドワードはぽつりと呟いた。

「軍内部、もしくはもっと上層の政府内に何かあったりして」
「幾らなんでもそれは飛躍しすぎじゃない」

 弟の言葉を、いや、とエドワードは否定し返す。

「親父が知りたがっていることを知っている夫婦がタイミング良く殺されて、上の命令ということで大佐がなぜか捜査指揮をとる……妙だろ」
「父さんは何を知りたがってたのさ」
「医療錬金術の研究をしてたみたいだけどな。昨日の荷物、覚えてるか。足りない荷物がケルススに奪われた可能性があるらしい。あれを精製する方法を医者夫婦は知っていたようだと」
「医療錬金術?」

 アルフォンスは眉を顰めた。
「父さんの専門外のような気がするんだけど、それ」
「まぁ、それはそうなんだけど……」

 言われてみればそうだな、とエドワードは肩を竦めた。

「夫妻の死がケルススだとしたら親父がらみで殺された可能性は大だ……リンに引き続き調べさせろ」
 アルフォンスは頷く。

「あの女が狙われる理由なんてなさそうだけど、まぁ、これで何も出てこなかったら、オレらは晴れて御役御免てわけだ」
 はぁ、と息をついて、エドワードはさらに深くソファに身体を預ける。ひとまず夜は交代で寝ることに決めていて、先にエドワードが寝る番のはずなのだが、彼はまだ寝ようとはしなかった。

「やっぱり、寝てないでしょ。兄さん」
「んー」

 そんなことねぇよ、と呟くエドワードの左頬は、橙色の明かりの下でもそれと分かるほどに赤くなってしまっている。
「あの子に謝ったほうがいいんじゃない」
 途端にエドワードの表情は不機嫌そうになる。

「あれは事故だっつうの。あの女が紛らわしい叫び声あげるのがそもそもの原因なんだから、自業自得だよ」

「それでもだよ。女の子なんだし、やっぱ失礼だろ」

 エドワードはむくれたように唇を引き結ぶ。仕事を全うしようと思ってしたことなのに、それが原因で責められるなんてフェアではない。

「お前、やっぱ先に寝ていいぞ」
「兄さんのほうが先に寝たほうがよさそうだけれど……」

 オレはいい、とエドワードは弟の言葉をあっさり否定した。

「二時間交代だ。……寝ろ、な?」

 言い出したら聞かない兄の性分を知っているアルフォンスは、それ以上何も言わなかった。
 分かったよ、とばかりにソファから立ち上がる。そこは一応、ウィンリィの部屋だ。エドワード達には別室に寝室をあてがわれている。
 寝てくる、と言った弟に、兄は、おう、と軽く言葉を返す。
 部屋を出る手前、ソファに深く身体を預けたままの兄の後頭部を一瞥して、アルフォンスはその背中に言葉を投げた。

「寝ちゃ駄目だよ、兄さん」

 本当は別の言葉を投げたかったのだが、アルフォンスは何を言えばいいのか分からなかった。ただ、不安だった。兄は後悔しているのだろうということが痛いほどに分かるからだ。だから、兄は寝つきが悪い。

「寝るか」

 兄は振り返らない。

 アルフォンスはこっそり息をひとつついた後、ノブを回してドアを押し開け、部屋を出た。






 それは予感なのかもしれなかった。
 ウィンリィは不意に覚醒する。眼をあければ、墨を流したような暗闇が横たわっている。ベッドには一人だった。今、何時なのだろう、と、シーツの上に身体を縫いとめたまま、ウィンリィは視線だけをうろうろと闇に彷徨わせる。

「デン?」

 暗がりの中で、愛犬の名を呼ぶ。いつもならベッド脇の籠の中で寝ているはずなのだ。しかし、いる気配がない。
嫌な夢を見た。
 視線を暗がりの中で右往左往と這わせながら、ウィンリィは吐き気にも似た苦いものがこみ上げてくるのを感じていた。

(いや、夢じゃない。……これ以上悪い夢なんて、もうありえない)

 せりあがる苦味は、瞳から液体となってあふれ出す。何にも代えがたいものを、唐突に理不尽に奪われてしまった。この感触を喪失感と呼ぶのだということさえ思い至らないほどに、ウィンリィは絶望していた。

(どうしたらいいか分からない)

 嘔吐感にも似たものを胸に覚えて、ウィンリィは思わず身体を起こす。口元に手をあてたときに、ウィンリィは全身が粟立つのを覚えた。それは唐突だった。唐突に、直感めいたものが確信に変わって、ウィンリィの前に立ちはだかる。
 ぎくりとして、ウィンリィの一切の挙動は止まってしまう。
そうだ。どうして愛犬はいないのだろう。その代わりに、どうして、こんな気配がするのだろう。

(なに…………?)

 静寂の中に闇は横たわり、身動きひとつしないかのように思われた。しかし、ウィンリィは目をこらす。部屋の真ん中に据えられたベッドから、ウィンリィは真正面に佇む闇をじっくりと見つめた。

 そこにある何かを切り抜こうとするかのように、目を皿のように見開く。動くはずのない闇がゆっくりと人の形に型抜かれていくのを見て、ウィンリィは声が出なかった。それが何なのか、頭の中で整理して理解に至るまで、全ての挙動が彼女の中で停止してしまう。

「コンバンハ」

 月夜ではなかった。ベランダに繋がる大窓にはカーテンが引かれ、明かりを落とした部屋の中で、それが何なのか、判別する術はない。それでも切り抜かれた影が唐突に喋りだしたのだ。
 絶句して、ウィンリィは瞳に焼き付けるように影を見据える。

「ウィンリィ・ロックベルさんでしょうかね?」

 男の声だった。聞き覚えはない。ひょろりと長身の影が大袈裟な動きを見せて揺らぐ。

「……だ、れ」

 誰何する声は震え、掠れた。人を呼ばなければと思った。それなのに、ウィンリィは声が出せない。呼吸することも忘れてしまいそうになるほど、身体が硬直して動かない。
 不意に耳に、犬の呻く声が飛び込んできた。

「…………デン?」

 暗がりの中で目を凝らす。ベッド脇下で、身を低く屈めて唸り続ける愛犬の姿を目に入る。威嚇するように喉を震わせるデンは、しかしどこか怯えたように、その黒い尾を巻いてしまっている。
 人影はゆらりと動き、「しーっ」と人差し指を口の辺りに当てる仕草をしてみせる。

「騒がなければ何もしませんよ」

 騒がなければ、ね、と男は言い含めるように二度繰り返す。
 ウィンリィは声が出せなかった。身体の全てが鉛になってしまったのではないかと錯覚してしまう。上体を起こしたまま、切り取られた影絵を凝視していた。

「お父様とお母様、同時に亡くされてさぞお悲しみのことでしょう?」
「……な……」

 ウィンリィの身体に黒い戦慄が走る。どっと身の内に充満する、怒りとも悲しみとも判別つかない感情を、ようやく思い出して、唇を噛んだ。

「あなた、誰……」

 ようやく声をまともに出す。シーツをかぶった身体はなぜだか誤魔化しようもなくぶるぶると震えていた。横のベッド脇下ではデンがひたすら唸り声を低くあげていた。それが警告のように耳に刺さる。それでもウィンリィは暗闇をひたりと睨みつけた。

「お父さんとお母さんのこと、知ってるの?」

 知ってますとも、と影は嘲笑った。月明かりも何も光が宿らないこの部屋の中で、ウィンリィの瞳はゆるやかに闇に慣れていく。暗がりに溶けた影を切り抜き、よくよくその顔形、素性を見極めてやろうと意気込む。闇に慣れゆく目は、薄い夜明かりともいえないほどの淡い光を拾い上げて、閉ざされた視界を少しだけ拓く。そして、ひょろりとした痩身の男のシルエットを浮かび上がらせていく。
 男の仕草は大仰だった。細長い両腕を広げて、知りたいですか? とウィンリィに愚問を投げてくる。
 知りたいに決まっていた。両親を一度に亡くしたショックを、ウィンリィはまだ受け止めきれずにいた。その死を知ったのはまさに昨日の朝なのだ。受け止められるはずがなかった。

「あなたのお父さんとお母さんは、大事な物を私に下さらなかったのですよ」

 物腰の柔らかな口調で影は流暢に喋った。

「だから、貴女なら知っているかなぁ、と思って。……こうして参ったんですがね」

 男は長髪のようだった。色は分からない。闇色の人形が、道化のようにケラケラと声をあげながら踊っているようだった。ひと括りにしているらしい後ろ髪が、その大仰な動きにあわせて獣の尾のように右往左往と揺れる。

「あとたった一つなんです。……貴女ならきっと、知っているはずだ」

 ウィンリィは何のことか分からなかった。眉をひそめて、首を振る。

「なんのこと?」

 とぼけますか、と影は大仰に驚いたような仕草を見せた。知らないはずがないでしょう、と影は一歩、ウィンリィに近づく。

「教えてくださいよ。……アレは全てを生かし、全てを殺す物だ。あと一歩で完成なのに」

 ウィンリィは首をなおも横に振った。男が何を言っているのかさっぱり分からなかった。そんなことより、父と母のことを聞きたかった。この男は何かを知っているらしいのだ。

「そんなことより、教えて。……お父さんとお母さんは……」

 いけませんねぇ、と男はガッカリだとばかりに肩をすくめてみせる。

「貴女のご両親もそうだった。簡単なことなのに、絶対に言わない。だから死んでしまったんですよ」

 ハタとウィンリィは絶句する。
 ようやく彼女の意識はきちんと覚醒し始める。この状況がどれほどおかしいか、もっと早く気づくべきだったのに、気づかなかった。いや、気付いていたけれども、気付いていないフリをしていたのだ。怖いものは見たくない。都合の悪いものには蓋をする。そんな気持ちでズルズルと男の話をきいて、そして破綻を迎える。
 じわりと、恐怖が舞い降りる。今度は、理屈を伴った畏怖だった。どうしてこの男は「だから死んでしまった」などというのだ。どうしてこの男は変な質問を繰り返すのだ。どうしてこの男は、この部屋にいるのだ?
 だからね……と、影は、まるでとどめだとばかりに、笑みをいっぱいに含めた声音であっさりと告白した。

「言ってくれないから、殺しちゃったんです」

 気づいたときに、切り抜いた影絵はぐいと大きくウィンリィとの距離を縮めていた。ウィンリィは目を見開く。ひやりと背筋を這った死の匂いさえするその寒気に、身体が悲鳴を上げた。


【中略】


 ずきずきと痛む腕をそのままに、エドワードはテーブルの上の袋に右手を伸ばした。緩く紐で結わえられた黒い巾着袋だ。天地をひっくり返して軽く振ると、パラパラと細長い種が零れてくる。

(見たことある)

 どこでだったか。父が依頼した仕事で見かけたあの種であるはずなのだが、それ以外にも見たことがあるような気がしていた。なんとなく予感がしていた。思い出さなければと思った。何か大切な事柄のように思えたのだ。
 しばらくして、ウィンリィがお湯の張った洗面器とタオルを持ってくる。湯気の立つ洗面器に布を浸して絞ると、ウィンリィは血で汚れた腕を拭き始めた。白いタオルはあっという間に真っ赤になっていく。

「そんな顔、すんな」

 無言で腕を拭いてくれる彼女の顔を見て、エドワードは思わずぽつりと言った。

「痛ぇけど、大丈夫だから」

 ウィンリィはきゅっと唇を噛んだ。痛ましげに顔を歪める。

「……あたし、無力だ」
「……」
「ランファンを怪我させて、アンタも怪我して。……こうやって、何かあってからじゃないと、何も出来ない」

 エドワードは息をついた。

「あのな。……今こうやって力になってるだろ。どこが無力なんだ?」
「だって」

 エドワードは視線を逸らす。ウィンリィが泣き出しそうな顔をするのを見るのはどうも苦手だった。

「この世は役割分担なんだよ。治すやつもいれば、殺すやつもいる。……おまえの場合、怪我をした奴を治すのが仕事なんだから、それ以上の力がなくても誰も責めねぇよ」
「……」
「だから、そう卑屈になるな」
「エドは」
「……」
「…………強いね」

 エドワードは不快そうに眉を顰めた。

「強くなんかねぇよ」

 殺すことしか出来ないのに。
 エドワードはむっつりと黙りこくる。二人の間に沈黙が落ちた。
 空気が重苦しい。エドワードはため息をついた。ちらりと視線を走らせて、テーブルの上を物色する。手当てをするウィンリィの横で、身体は出来るだけ動かさずに、空いた腕だけをテーブルに伸ばす。
 指が手にしたのはメモ紙とペンだ。テーブルに置かれた電話の横に据えられている。

「?」

 エドワードが右手に握ったペンをさらさらと紙に走らせ始めたので、薬箱を物色しながらもウィンリィはなんだろう? と彼の手を横目に見る。
 エドワードが描いたのは、一番原始的な錬成陣だった。手癖でも綺麗に円陣を描いたエドワードは、ちらりとウィンリィの顔を横目で一瞥してから、その紙の上にそっと手を載せる。

「!」

 蒼白い錬成反応がペキっと音を立てながら弾けて、光の跡に、紙で出来た花の造詣が出来上がる。
 ウィンリィは目を丸くする。
 エドワードはもう一枚、メモ紙を破ると、また錬成陣を描き出す。

「あとなんだ? ひよことか馬とかか?」

 ウィンリィは目を丸くして彼の手元を見ていた。間近でそういう錬金術を見るのは初めてのような気がする。

「陣を書くものなの?」
「元々はな」

 ウィンリィは彼が錬金術を使うときは錬成陣を描いているのを見たことがなかった。大抵、彼は両の掌を合わせたあとに、錬成する対象に触れることで錬金術を発動させていたからだ。

「あのスタイルは、親父からの直伝。……殺人用の」

 使えるのは三人だけだ、とエドワードはぽつんと言う。

「でも小さい頃は、こうやって、紙の上に陣を描いて錬成してた」

 ウィンリィは消毒液を塗る手を止めて、彼の右手を見つめる。次に描いた陣から生まれたのは、ひよこの造詣だ。

 エドワードがそんなものを作るのがなんとなく似合わなくて、ウィンリィは思わず口元を緩めてしまう。
 エドワードはそんな彼女を横目でみてとめて、笑うなよ? と小さく言った。しかし、怒っているわけでも注意しているわけでもない。どこか嬉しそうだった。
ウィンリィの顔がどこかようやく緊張を解いてくれたような気がして、ほっとしたのだ。

「母親が、これを作るとすごい喜んでたんだ」
「お母さんが?」
「うん。……最初は、母さんが喜ぶの見たくて、錬金術に夢中になった」

 アルと一緒に毎日錬金術三昧、とエドワードは懐かしむように呟く。そんな彼を、ウィンリィはどこか珍しいものでも見てしまったような目で眺める。

「こんなのも出来るぜ」

 エドワードはテーブルの上に転がったレモンバームの種子を一粒手にとる。
新しい紙片に描いた錬成陣は、今度は少し複雑だった。それでも惑うことなくさらっと描いた彼は、その上に種を一粒のせる。おもむろに光が弾けて、紙の上には種子から不恰好に葉を伸ばしたレモンバームの花が現れる。赤い花びらをもった小さな花。

「土壌がないからこれが限界、か」

 ウィンリィは目を丸くする。
 そうだ、と思い出したエドワードは苦笑いを噛み殺してウィンリィを見た。

「おまえ、赤色の花がすきって言ってなかったっけ?」
「……どうして」
「昔、どっかの生意気な女が『庭一面、花畑にしてみせろ』ってオレに言いやがったんだ。こうやって何かの花の種をどっさり渡しやがってさ。……でも、オレ、その時はまだこの錬金術は使えなくてな。帰ってから必死こいて勉強して」

 で、今はこの通り、とウィンリィに示してみせる。
 右肘をテーブルについて掌に自分の顎を載せると、隣に座って左腕の消毒をしている彼女をちらりと横目に覗き込む。

「今ならお望みどおり、おまえん家の庭くらいなら花だらけに出来るぜ」

 今度してみせてやろっか? とエドワードは軽く笑った。は、とウィンリィはエドワードを真っ直ぐに見返す。

「あたし?」
「……おまえ以外に誰がいるんだよ」
「……おぼえてない」

 は、とエドワードは笑った。

「おまえ、ひっでえ女」

 なによ、とウィンリィは膨れっ面を浮かべる。そんな彼女の顔を見て、エドワードは内心ほっとする。

(やっといつも通りの顔に戻ってくれた)
 
 ウィンリィは彼が気まぐれにやらかした錬成の跡を見渡す。

「すごい……なんでも、出来るのね」

 エドワードはわずかに顔を曇らせるが、それは一瞬だけだった。淡々とした表情で、今度は別の紙切れを子馬の形に変える。

「出来ねぇよ」
「え?」

 ウィンリィは顔をあげる。エドワードの表情はひどく静かだった。何かを抑えるかのように低い声で彼は呟く。

「死人だけは蘇らせられない。殺すことは出来ても、生き返らせることは出来ない」
 二人の間に沈黙が落ちる。
「母さんもそうだった。……親父を庇って死んだんだけれど。……アルはそれから、錬金術を滅多に使わなくなったな」

 もう錬金術を披露しても、笑ってくれるひとはいない。だから、アルフォンスは、滅多に錬金術をみせなくなった。

「おまえ、医者になるんだろ?」

 エドワードはすぐ傍に座るウィンリィの顔を真っ直ぐに見つめた。

「そういうの、大事にしろよ、って……思う。医者は医者にしか出来ないことがあるんだろうし」

 生かす者だと、エドワードは思う。自分が殺す者なら、彼女は間違いなく、生かす者だ。

「……だから、無力だとか言うな」
「……」

 ウィンリィはわずかに俯く。それから、うん、と頷く。

「エド」
「……何」

 泣くんじゃないだろな、とエドワードが少し恐々としていると、ウィンリィはぽつりと言った。

「ありがと」

 エドワードは肩を竦めた。こそばゆかった。何もしていない。何も出来ていないのに。
だから、ぶっきらぼうに言い捨てる。

「……まだ何もしてねぇよ」

 ウィンリィは首を振って、テーブルの上に咲いたレモンバームの花に手を伸ばす。ウィンリィの家で咲いていた花は小さな白い花のはずだった。どうやったのだろう、と不思議に思いながら、ウィンリィはその赤い花びらを手にする。
 ギザギザの子葉は見た目からもガサガサとした手触りを想像できる。ハートの形にも似たその葉をウィンリィはテーブルに二、三枚、ちぎってならべた。

「これね、別名を、メリッサ、と言うの」
「……メリッサ?」

 きいたことある、とエドワードは眉を顰めた。つい最近だ。そして、思い出す。父が言っていなかったか? メリッサという言葉を。

「色んな伝説のある植物よ。葉には色んな効用があるの。抽出した植物油にも。息子に殺されると予言されたどこかの国の神の妻は、その神との間に生まれた子供を夫から隠して生活させた。その時、その神の子に蜂蜜を与えて育てた女の名前がメリッサ、だとか」

「聞いたことが、ある」

(親父が言ってたことだ)

 心当たりがあった。

「そう?」

 色々伝説は尽きないけれど……と言いながら、ちぎった葉の表裏を濡れたタオルで拭いたウィンリィは、それをエドワードの二の腕に押し当てる。

「……ッ……」

 顔を顰める彼に、我慢して、とウィンリィは低く諭す。

「じゃあこれは? こんな伝説もある。……エドは、さまよえる名も無き者の話を知っている?」
「……なんだそれ」

 押し当てられた葉がひんやりと傷に染みる。エドワードは顔を顰めながらも、手当てを続けようとするウィンリィの一挙手一投足を見ていた。血が止まった腕からは、心臓の動悸に合わせて脈打つような傷みが伝わってくる。ウィンリィはエドワードの顔を見ようとはしない。はりつけたレモンバームの葉をとりさると、真剣な眼差しで腕に包帯を巻き始める。

「ある男がいたの。その男は世界の終末の日まで放浪しなければならないっていう運命づけられた名も無き旅人だった。ある年、ある街の精霊降誕祭の日に、名も無き旅人は喉の渇きから街人に一杯のビールを物乞いした。でも、贅沢なビールをくれる人は誰もいない」
「……」

 肩から腕にかけて巻いた包帯を指で押さえながら、ウィンリィは救急箱の中から取り出したテープに手を伸ばす。もう片方の手で器用にテープを千切って包帯を留めた。

「でも、ある一人の心優しい街人が、男に一杯のビールを差し出した。ビールは高級品で、街人でさえ滅多に飲まない。男はたちまち元気になって街人に礼を言うんだけれど、街人の顔色は冴えない。聞けば街人は死に至る病を抱えていてもう回復の見込みは無いと言われていたの。それを聞いた男は、ビールのお礼に街人にこう言ったのよ」

 包帯とテープを片付けると、ウィンリィはエドワードの腕から剥がした葉を一枚、指先につまむ。

「『ビールの入った壷にメリッサの葉を三枚入れて、出来るだけ毎日飲みなさい。そして、四日毎にその葉を新しい物に取り替えなさい。そうすれば十日と二日もすれば、あなたの身体は回復する。私があなたの命を約束しよう』って」

 レモンバームの葉をくるくると指先でつまんで回しながら、ウィンリィはエドワードを見る。顔の前にかざすようにしてレモンバームをつまんでみせる彼女は、葉越しにエドワードを真っ直ぐに見詰めた。
 二人の視線は音もなく重なる。

「……それで?」

 エドワードは視線を外さないまま、ウィンリィに続きを促す。

「街人は不思議に思いながらも、旅人を信じたわ。ビールの壷にメリッサの葉を三枚入れて毎日飲んだ。そして、本当に回復したの。旅人は命の約束を守ったのよ。それ以来、メリッサは全ての傷を癒す力を持っているといわれるようになったっていう、伝説」

 ウィンリィはハートの形にも似たその葉を唇に軽く当てる。鼻先に香るのはレモンに似た甘酸っぱい匂いだ。

「万物に効能を奏する薬……」
「え?」

 エドワードは左手を伸ばして、ぎざぎざの葉を握る彼女の腕をとった。

「親父が言っていた。……万能薬の素になる種だと」

 ウィンリィは怪訝そうに小首を傾げる。

「何の、話?」
「おまえの両親が殺された夜、オレも人を殺した」

 暗がりの中、ウィンリィの表情が硬く強張るのをエドワードは見逃していなかった。右手で彼女の手首を握って、自分の顔の方にのせる。

「裏切り者を一人、処刑した。……その時に回収した荷の中に入っていた種は、レモンバームの種だと思う……どこかで、見たことがあると思ったんだ」
「……」

 エドワードは反芻するように記憶を解いていく。回収した荷を、父は足りないと言っていた。そして、ウィンリィの両親が熱心だったらしいレモンバームの栽培。

「父さんと母さんは……」

 手を握られたウィンリィは、どこかはにかむように視線を指先から逸らす。

「メリッサは人を生かすことも殺すことも出来る薬草だと言っていたわ。万能薬は、使い方を誤れば、薬に殺されるって」

 意味深だな、とエドワードは目を細める。そのフレーズもどこかで聞いた。そう、父が言っていたのだ。
 彼女の手首をひくと、ウィンリィの指先で揺れるメリッサの葉を口元に持っていく。軽く葉が唇に触れると、レモンの香りが漂う。ウィンリィは彼が戯れに葉に口付けるのを、眩暈を覚えながら見ていた。

「他に、何か言ってなかったか?」

ウィンリィは小首を傾げる。

「……何も」

 そうか、とエドワードは力なく頷く。ウィンリィは彼がおもむろに手を離すのを、力なく眺めていた。離されてぱたりとテーブルの上に落ちた自分の腕とレモンバームの葉を見つめる。その葉は彼が口付けたものだった。ウィンリィは焦がれるようにそのメリッサの葉を見つめる。全てに効能があるというメリッサの葉。だったら、自分が今抱えている病じみた情動もおさめてくれたらいいのに。

「エド」

 何か着るものはなかったか、とエドワードは椅子から立ち上がろうとする。血塗れたシャツを着る気にはとてもなれなかった。名を呼ぶ声に、なんだ、と返事はせずに目で彼女を捉える。
「キスして」
「……は?」

 一瞬何を言われたのか分からなくて、エドワードは全ての動きを止める。

「して」

 真摯な眼差しを真っ直ぐに彼に注ぐ。戯れではないらしい。それを受け止めてから、エドワードは目を伏せた。逃げるように視線を逸らす。

「駄目だ」
「なんで?」

 エドワードは彼女が手にしたメリッサの葉を見つめながら、低く、感情を抑えるように繰り返す。

「……駄目だ」
「一度はしたくせに?」

 ウィンリィの口調は責めるものではなかった。しかし、静かなその声に失望にも似た響きが佇んでいる。

 エドワードは一瞬だけ苦いものを呑んだように顔を顰める。

「忘れろ」
「……」

 ウィンリィは指の中でメリッサの葉をくるくると回しながら、無理よ、と低く呟く。

「おまえを」

 エドワードはウィンリィを見ることが出来なかった。感情が間違っていたとは思いたくない。それでも、駄目だろと何かが叱咤している。 圧倒的に、違いがある。埋められない落差がそこにある。人を生かす彼女と、殺す自分。溢れた感情に一度は素直になっても、やはり怖かった。躊躇する。

「これ以上、汚したくない」

 彼の言葉にウィンリィは眉根を険しく顰める。

「汚したくないって何? あたしが汚れてるってことなの」

 違う、とエドワードは驚いて顔を上げた。そこでようやく、二人の視線がもう一度噛み合う。

「おまえとオレ、違いすぎる」
「……」

 何が? とウィンリィは首をかしげる。エドワードは唇を噛んで、そんな彼女を見つめた。人の傷を癒して治すためにいる医者になろうとしている彼女と、人を傷つけ殺している自分。

「……今まではおまえを守るのが仕事で、やってきたけど」

 違いすぎるんだ、とエドワードは低く呟いた。

「おまえは人間だけれど、オレはたぶん、もう人間じゃない」

 沈黙が落ちた。
 それは恐らく、いつも懐疑的に彼を支配していることだった。アルフォンスが、ダンスパーティーで共に踊った時に見せた懸念が何なのかをウィンリィは思い出す。兄さんは今の仕事を嫌がっている、と彼は言っていなかったか。そして、あの夜、彼が一瞬だけ見せた弱音とも思しき夢の話。
 ウィンリィはメリッサの葉をつまむ指先に力を込めた。彼女の中に答えが弾き出されるのに、数秒もかからなかった。

「前も言ったけれど」

 え、とエドワードは小首をかしげる。

「もう誰も殺さないで」

 ウィンリィはエドワードを真っ直ぐに見つめる。
 またか、とエドワードは渋面を作る。

「殺さないと、おまえを守れない」

 しかし彼女は首を振る。

「あんたがあたしを守るためにあたしを愛せないなら、死んでもいい」

 エドワードはふざけるなよ、と怒気を膨らませた瞳でウィンリィを射る。

「守りたい奴が死んでいいって言ったら、オレは何のためにここにいるんだよ」
「あたしだって、死にたくない」
「だったら……」
「死にたくない。生きたい。あんたと生きたいの」

 だから、とウィンリィは懇願するようにエドワードを見上げた。

「もう誰も殺さないで。エドが人間じゃないっていうなら、……あたしが人間にしてあげる」
(だから、あたしを守るために人を殺さないで)

 彼が言葉を継げずにいるのをウィンリィは黙って見返す。ひたひたと身体に満ちていく情動を、治す術をウィンリィは知らない。
(メリッサは万能薬だというけれど)

 ウィンリィはおもむろに指でつまんでいたメリッサの葉を唇に持っていく。彼が戯れに触れたであろう所に唇を近づける。薄く霧散していくレモンに似た匂いが鼻腔をくすぐるけれども、それだけだ。
(たぶん、効かないわ)
 自分が堕ちてしまった病に、効能は恐らくない。緑色の葉へのキスはあまりに儚く、ウィンリィの唇にさらなる焦がれしか残さない。

「無理だ……」

 エドワードは己の身体にナイフでも突き立てるような思いで声を絞り出した。

「分かってくれよ」

 彼女がひどく理不尽なことを言っている気がして、エドワードは腹立たしかった。同時に哀しかった。そして、彼女の瞳に、ひたひたと揺れ始める哀しみを見て、エドワードはやるせなかった。

「誰かを殺さなくたって、エドはあたしを守ることが出来るのに。どうして?」
「……」
「あたしを守るためにエドが人を殺すなら、あたしは守られたくない。死んでもいいよ」

 ウィンリィはメリッサの葉を手離す。はらりと宙を舞うメリッサが、二人の間にぱたりと音もなく落ちていく。
(せめてメリッサになれればいいのに)

 涙で揺れ始める視界の真ん中で、宙を舞うその一枚の葉を見つめながら、ウィンリィは嘆いた。彼の唇が戯れに触れた、そのメリッサの葉になりたい。
目の前の男がいつも罪悪に思っていることを全て消して、癒して、彼がいう「人間」にしてあげられたらいいのに。

「泣くな」

 低い声が耳に落ちる。

「頼むから」

「だったら、」

 涙を孕んだ瞳をそのままに、ウィンリィは顔をあげる。苦しげに顔を歪めたエドワードが目の前にいる。すがるように、彼に訴えた。

「約束して。殺さないで。そうしたら」

 言いながらウィンリィは分かっていた。傲慢だ。こんな事を言うのは自分の傲慢と我侭でしかない。誰かを救うなどと、誰かを治すなどと、相手に約束出来るほど、自分は強くも力があるわけでもない。それでも、目の前の男がそれを嘆いているなら、救いたかった。願いたかった。

「そうしたら、あたしがあんたを治してあげる。殺さなくてもあたしを守れる方法を、教えてあげる。あたしが守ってあげる」



…続きは本文で。


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