夢をみるんだ。
暗くて、罪深くて、誰にも言えない
夢。
逃れたい夢。
追いかけたい夢。
欲しくてたまらない夢。
お互いに、求め続けている。
だから、
オレがおまえを理由にしないように、
おまえも、オレを理由にしなくていいんだ。
――― 握り拳を作ったウィンリィの左手に、
アルフォンスはさらに自分の左手を重ねるように置いた。
アルフォンスの手と手に包まれたウィンリィの左手は、
ひどく頑なだった。
(怖がらないで)
アルフォンスは願った。
泣きそうになっている彼女を見るのが辛くてたまらなかった。
ねぇ、ウィンリィ、とアルフォンスは静かに名を呼んだ。
彼女の左手を、鎧の手をのせたまま。
『ボクはね、本当に、何も気にしてないんだよ』
だから怖がらないで欲しい。
好きになるのを怖がらないで欲しい。
欲しがることを、願うことを、怖がらないで欲しい。
■本文サンプル■
*少々性描写を含んでる部分もありますので、
苦手な方はご注意ください。
走っていた。
あてもなく、追いかけていた。追いかけているものが何なのか、見失っていることにも気づかずに。
(いない。どこにもない)
あたしは何を探していた?
ウィンリィは走っていた。探していた。何を探していた? 唐突に思い出す。ああそうだ、エドだ。アルだ。そうだ、あたしは、おにごっこをしていたんだ、と。かくれ鬼をしていたはずなのだ。
しかし、二人はいない。どうして? とウィンリィは困惑しながら走る。じゃんけんをして鬼を決めたのだ。負けた自分が鬼だった。十秒時間を数えた。いーち、にーい、さーん、しーい、ごー…………。
数え終わって、自分がどこにいるのか分からなくなる。
とても暑い日だった。昼間からずっと、幼馴染の二人と一緒になって遊んでいたのだ。触れれば溶けてしまうのではないかという位に真白い雲が、透き通るほどに高く青い空に浮かんでいる夏の午後。
ウィンリィはひたすら走っていた。
収穫を間近に控えた麦畑の脇を通り過ぎて、農道を横切る羊の群れを追い抜き、見知ったリゼンブールの小道を一人で駆け抜ける。足につっかけたサンダルが肌に食い込んで、やたらに痛い。血が出ているかもしれない。しかし、ウィンリィにはそれを確認する暇も無かった。エドとアルがいない。たった十秒、目を離した隙に、目を閉じていた隙に、自分の目の前から消えていなくなる。
(どこ?)
彷徨うように探し回るうちに、自分がどこにいるかも分からなくなる。くるりと振り向いた背後に、あるはずの来た道を見失い、心はどんどん焦る。ああここはどこなのだ? 道が無い。あたしは、どうやってここまで来た? 何を探していた? とてもとても大事なものだったはずなのに。かつて失ったものに似た、とても大切なもののはずなのに。
もう一度振り返るのが怖かった。来た道は無い。それでは、つい今まで探すように目指していた、この道の先は? 無い道の先に、道はまだあるのか?
ウィンリィは息を呑む。世界が徐々に暗くなっていく。闇に呑まれていく。時間が刻々とうつろいでいく。何か探していたはずなのに、手の中には何も残っていない気がしていた。怖くなって、それでも、進んでいたはずの道の先をもう一度振り向く。
そして、引きずられてしまう。
息を継げずにいた。振り向いた先に彼がいた。ひどく力強く、有無を言わさない圧倒的な存在だった。痛いほどに腕を引っ張られた。
エド。
名前を呼ぶ間もなく、抱きとめられる。引きずられる。暗い方へ。暗く密やかな闇へ。
探していたはずなのに、逆に見つけられる。見つけられて、捕まえられて、引きずられていく。そして、堕(お)ちていく。
呑まれるようにウィンリィは目を閉じる。忙(せわ)しなく襲ってくるのは、快楽だった。
耳に残るのは、切れ切れな喘ぎ。
残響するそれは、汗ばんだ部屋の中で熱を帯びながら緩やかに高まり、ウィンリィの耳をくすぐる。
すぐ耳元に彼の顔があって、切れ切れな息が忙しなく落ちてきていた。彼の身体の重みを受け止めながら、ウィンリィは逃れるように白い肢体を仰(の)け反らせる。しかし、彼には敵わない。
汗ばんだ身体をシーツの上に縫いとめられるように抱きかかえられて、身体の真ん中を貫かれ、抉られる。
『え、どぉ…………ッ』
息も切れ切れに泣き叫んだ記憶が残っている。それに対する彼の返答はなくて、ただただ、彼の動きが一層激しくなっていくのみだった。
*中略*
「どした?」
四つん這いになって自分の上で震えているウィンリィを、エドワードは不審に思った。
くちゅ、と粘着質な液体が指先に絡む。しかし、いつもとどこか調子が違っていて、あまり濡れていない。
彼女が行為に集中していないと気づいて、エドワードは少し不安に駆られる。
「よくないのか?」
ウィンリィは首を振る。そうじゃない、と。しかし、エドワードの指先のぬめりは、緩やかに乾いてくようだった。
「ウィンリィ?」
指を引き抜くと、彼女が倒れこんでくる。少しばかり驚いたが、エドワードは胸に受け止める。俯いた彼女の息は乱れていて、エドワードの首筋に熱を帯びながら触れてくる。
「アルに、ね」
エドワードの耳元に顔を寄せる。切れ切れに息を継ぐ。
「アルに、あんなこと、言う資格、ないのに」
首をかしげて、ウィンリィの背中に両腕を回して抱きしめる。さっき言った八つ当たりのことだろうか。
「……何、言ったんだ」
「…………」
ウィンリィは、エドワードの肩口に顔を埋めながら、わずかに表情を歪める。幾らかの躊躇いのあと、ウィンリィは小さく囁いた。
「……何も言わないのね、って」
「……は?」
「あんた達は、何も言わないのね、って。言ったの。言ってないのは、あたしのほうなのに。エドと…………」
言いかけて、口をつぐむ。その続きは、言わなくても、エドワード自身よく分かっているはずだったからだ。
(何も言わないって)
彼女の言葉を何度か反芻して、エドワードは一瞬、遠い目をした。
(何も言ってないのは、オレのほうなのに?)
*中略*
時を刻まない時計だ。
ポケットに突っ込まれたそれを引っ張り出す。てのひらにのるサイズだが、その大きさに似合わず、意外に重い。以前、これの中を見たことがあった。刻まれた字に涙したのをウィンリィはよく覚えている。
蓋を開けようとした。しかし、ウィンリィは止めた。あけようとしなくても、開かないことは分かっていたからだ。エドワードはそこを錬金術で封をしていた。エドワードが隠したかったもの。しかし、知ってしまった。
ウィンリィはしばらくの間、銀の光沢を放つ時計のその丸い曲線を眺めていた。指でついと撫で、軍の紋章を指先でなぞる。指先の手触りは、機械鎧に似ているような気がする。色が似ているせいかもしれない。
その紋章は、少し怖かった。
明確な理由があるわけではない。ただなんとなく、ウィンリィはそれが、両親の死と結びつきそうな印象をぼんやりと持っていた。、両親を失ったきっかけが戦争だったということ。戦争といえば軍が絡んでくる。だから、なんとなく、軍の紋章は、死に繋がるイメージがあった。もっと突き詰めて言えば、それは、失うことへの畏怖とでも言うべきなのかもしれなかった。
(どうしたらいい?)
時計を見つめながら、ウィンリィは己に問う。
(あたしは何をやってるの? 何を探しているの?)
夢をみた。探している夢だった。だから、修行中なのにも関わらず、帰ってきてしまった。始まりはなんだった? それを確かめるために。そして、鉢合わせしてしまった、幼馴染二人。
指先になぞったそれは、冷たかった。
その中に刻まれた文字を、ウィンリィは覚えていた。今、隣で眠りについている彼は、あの時確かに言った。
『自分への戒めと覚悟をこうやって形にして持ってなきゃいけないなんて、我ながら女々しいよ』
ウィンリィは指先でそれをなぞる。なぞって、掌で包むように銀時計の上に手をのせた。何の音も振動もしない。それは、時間を刻まない時計なのだ。エドワードは、時間を止めてしまったのだ。
(エドの言葉を聞いたときは、本心から思っていたのに。エドが安心して旅を続けられるように、あたしがサポートするんだって。……なのに)
同時に、別の物を欲している。アルフォンスのあの現状を知りながら。
(歩みを止めることになるかもしれないのに。足を引っ張るかもしれないのに)
ボクには時間が無い。
そう言われた気がしたのだ。消えちゃうかもしれないと言ったアルフォンス。冗談めかしていても、そう呟いてしまう、それが、彼の現実。それを知りながら、しかし、エドワードと身体を繋げていたいのだ。傍にいたいのだ。
身体を知らなければこんな思いには駆られなかったはずなのに。だから、罪悪感ばかりが募る。
(どうしたらいい?)
ウィンリィは、薄闇の中、嗚咽を噛み殺しながら、エドワードの銀時計を握り締めていた。脳裏に、彼の声が響いていた。気にしないでいい。見なくていい。おまえは、気にするな。抱かれて、これ以上ないほど身体を繋いで、近づいたはずなのに、エドワードが遠かった。響く声を聴くのが辛かった。まるで責められているようだった。それでも身体は交わした情事に満たされてしまっていた。
耳が痛い。
涙で顔をぐしゃぐしゃに歪ませながら、ウィンリィは唇を噛んだ。空白のピアスホールが、痛い。偽りがあった。彼に嘘を言っている。ピアスを買ってやるよ、と言った彼の声が響いていた。
(物は要らない)
欲しいのは。本当に欲しいのは。
だけれど、それを言えないから、欲しい振りをするのだ。物が欲しい振りを。本当は要らない物を要ると偽ることで、全てを誤魔化してやるのだ。
ちゃり、と手の中でそれが軋む音がした。ウィンリィはなおも銀時計を握り締める。壊れればいい、と思ったわけではなかった。しかし、何かを壊したかった。それが何なのか、ウィンリィ自身にも分からなかった。
窓の外が白み始めている。夜明けだった。群青色の部屋に、一筋の白い光が差し込む。それが合図だった。まるで天啓にも似たその衝動に、ウィンリィは従っていた。
手の中の鎖を握り締めなおす。指に絡めて拳を作った。そして、思いっ切り、それを引っ張ったのだ。
無言で、引きちぎる。ぎち、とかしいだ鎖は、圧倒的な抵抗でもってウィンリィの力に抗おうとする。しかし、ウィンリィは構わなかった。そして、それは切れる。ウィンリィの手の中に、その衝撃と、音が残った。
それは、世界が軋む音だった。
*中略*
アルフォンスは押し黙ったまま、しゃくりあげながら言葉を続けるウィンリィを見つめた。顔をぐしゃぐしゃに歪ませながら、ウィンリィはなおも言った。
「こんなこと、思っちゃいけないって分かってるのに、あんた達がどんな思いをしたのか知りたくて、言わないあんた達が歯痒くて、もどかしくって」
しかし、兄弟にはなれなかった。その代わりに手に入れてしまったのは。
(だから、ごめんなさい)
唇を震わせながら、ウィンリィは心の中でも謝罪していた。
(好きになってごめんなさい。欲しがってばかりでごめんなさい)
追いかけている。走っている。でも、届かない。踏み込めない。知りたくて、見て欲しくて、愛して欲しくて、欲張りになっていく。あいつが見せないものを全部知りたくて、心はどんどん欲深に渇いていく。
(あたしは、与えられてばかりで)
言葉が続けられなくて、ウィンリィは俯く。
踏み込むことも出来ずに、埋められない距離にあがきながら、いつの間にか与えられて、守られている。
「謝る必要、無いよ」
アルフォンスはもう一度言った。昨日と同じ、静かな口調だった。
アルフォンスは手を伸ばす。昨日と同じように、彼女の左手に、手を置く。テーブルに置かれた彼女の左手を包むように。
「ねぇ、ウィンリィ」
「…………」
「ボクはね、色んな間違いをしてきたし、母さんを錬成したことも、身体を失ったことも、兄さんが腕と足を犠牲にしたことも……とにかく取り返しのつかないことをしてきたんだけれど……」
鎧の頭を少しかしげて、俯いているウィンリィの顔を覗き込もうとする。
左手をさらに包まれたような気がして、ウィンリィは顔をあげる。触れたところから、何かが流れ込んでくるような気がした。それは、冷静に、物静かに語るアルフォンスの言葉に秘められた、感情なのかもしれなかった。
「でも、これだけは唯一にして最大の救いだと思ってる。……ウィンリィに、言わなかったこと」
*中略*
「おまえを」
(知りたい)
血糊を舐めとった指先を、彼女の額に這わせる。前髪をかきあげて、撫でつける。
「おまえは、ピアスなんか探してなかった」
ひどく落ち着いた声だった。ウィンリィはわずかに目を見開く。
「なに…………」
何言っているの、という声は掠れて最後まで音にならなかった。
エドワードに、何もかも見透かされてしまっているのではないかと、ウィンリィは逃げ出してしまいたくなる衝動に駆られた。しかし、身体はシーツの上に磔にされていて、組み敷かれていて、逃げ場が無い。
「何探してる?」
顔を近づけ、唇を寄せながら、エドワードは囁いた。夕焼け色に染まった部屋の中、彼の金髪は銅色に光をはじいて眩しい。
「何が欲しい?」
駄目だ堕ちる。ウィンリィはそう思った。
その太陽の光に似た眼差しに、全てが無意味になる。
唇が触れそうになる。ウィンリィは思わず唇を薄く開く。早くして、と。しかし、焦らされた。寸前で近づいてくる唇は止まって、吐息のみを落とされる。
落ちてきそうで、落ちてこない唇。瞳はエドワードの金色の双眸に縫い止められたまま、ウィンリィは苦しげに表情を歪める。
言葉は要らなかった。ウィンリィは両腕を彼の首に回す。引き寄せるようにしてしがみつくと、焦らされた唇がようやく溶けるように吐息と一緒に落ちてくる。
交わしたキスは、鋼の味がした。
続きは本文で。