「選ばせてやる。だから、選んで。オレを。
そうしたら、全てを手に入れるから。全てを捨てて。」
「何が正しいかなんて、誰が決めるんだろう」
「愛するから愛してくれって言っているようなものなんだよ、これって。
これが愛の告白じゃなくてなんだっていうのさ?」
―――ウィンリィはゆるゆると自分を襲ってくる現実感から、
目をそむけようと必死だった。
彼の顔が見えないのは、だから幸いだった。
「笑う練習。してた」
ふぅん、と言いながら、
エドワードはゆっくりとウィンリィのほうへ歩を進める。
「笑わないと、幸せじゃないみたいで」
「……じゃないだろ」
ウィンリィはわずかに目を見開く。
彼はあっさりと言ってのけた。
幸せじゃない、と。
ウィンリィは顔を俯くようにして、視線を下に移す。
切り抜いたような人影が音も無く近づいてくる。
警告のように跳ね上がるのは自分の心臓の音だ。
痛いシグナルを出している。近づいただけで息が苦しくなるのだ。
(これは何?)
答えは、分かっているはずだった。
■本文サンプル1■(サンプル全3本)
「しーッ! しーッ!」
勘弁してくれ! とエドワードは慌てて彼女の身体を引き寄せて有無を言わさずに口を塞いだので、悲鳴は音にならなかった。もがもがと腕の中でもがくその女のそのしぐさ、声、闇目にも分かるブロンドの髪をみてとりながら、自分の予感は当たらなくていいのに見事的中してしまっていることを悟り、エドワードは盛大なため息をつきたくなってくるが、ひとまずそれは思いとどまった。
「お前…………ウィンリィ、か?」
腕の中で逃れたいがために暴れていた女は、エドワードが耳元でぼそっと囁いた言葉に、一瞬でおとなしくなる。
口を塞がれたまま、女は首を巡らせて、自分を拘束する影の顔を凝視する。ちょっとばかり驚いたようなその目が、自分を誰であると認識してくれたようだと悟って、エドワードはゆっくりと手を離す。
塞がれた息を取り戻すかのように、彼女は大きく肩で呼吸しながら、エドワードをきっと睨みつけた。しかし、今度はこの状況を理解してくれたのか、悲鳴はあげなかった。
「なんで、アンタが、ここに、いるのよ」
声はひそめている。しかし、エドワードはひやひやした。彼女の声はよく透る。
「……それはこっちの台詞だ。お前こそ、なんで空から降ってくるんだよ」
ひそひそと低い声でエドワードはねめつけるようにそう言った。
「しかも狙いを定めたかのように、人の真上に落ちてきやがって……」
一歩間違っていたら、頭打って死んでいるところだったぞ、とエドワードは本気でそう言った。
しかし、ウィンリィはもうエドワードの相手はしていない。ハタと思い直したように、きょろきょろと首を左右に振って辺りを見回す。そして、ほっと軽く息をついた。
「良かった……誰もいない」
いや、オレがいるだろ! とエドワードは盛大にツッコみたかったが、今この状況下では憚(はばか)られた。自分はここに、遊びに来ているわけではないのだ。
「で。なんでアンタがここにいるの?」
ウィンリィは人の話を全く聞いていないとばかりにもう一度同じ質問を繰り返す。こいつ、馬鹿にしてんのか、とエドワードはむっとしたが、今はそれどころではなかった。
「お前には関係ない」
あら、とウィンリィは眉をつりあげた。
「ここをどこだと思ってるのよ? ホーエンハイムの息子がこんな所にいるなんて知れたら、袋叩きどころでは済まないわよ?」
ぐ、とエドワードは口をつぐんだが、しかし思い直したようにウィンリィをじろりと見返す。
「じゃあ、知らせろよ? 憎んでも止まない敵の息子がここにいるってよ」
今度はウィンリィが口をつぐむ番だった。なにやら彼女は、こっそりとこんな所に一人で来なければならない事情があるらしいと、エドワードは悟った。よく見れば彼女は余所行きの服ではなく、恐らく寝巻きのまま、しかも足につっかけているのは、普段履いているようなヒールではなく、どう見ても部屋用のスリッパだ。ガード一人もつけない無防備なままで、ロックベルの娘がこんな所で何をしている?
エドワードとアルフォンスの兄弟には、皮肉な幼馴染が居た。それがウィンリィだった。ウィンリィ自身が皮肉な性格、という意味ではない。この場合、三人のちょっとばかり特異な周囲の環境を指す。
(こうして会うのは何年ぶりだろう)
複雑な面持ちで、エドワードは彼女の身体を解放する。手をとって彼女を立ち上がらせてやれば、ウィンリィは小さい声でありがと、と囁いた。遊んだのは小さい頃の話だ。歳を重ねるに従って、当然敷かれたレールの上を走るように、疎遠になってしまった。
「久しぶりね」
どうやら彼女も同じことを考えていたようだ。エドワードは内心苦笑する。こんな所で油を売るわけにはいかないと頭の半分では分かっているのだが、どうも思い通りにいかない。
「わりぃけど……」
手を離しながら、こいつはこんなに柔らかいやつだったんだろうかなどと、昔の記憶を辿ろうとする自分の思考をなんとか押しとどめながら、エドワードは低く手短に言った。
「見逃してくれ。悪さはしないから」
半分は嘘だった。
ここがロックベルの庭である以上、エドワード達は存在するだけで既にもう悪に違いない。それにいちいち彼女に断る必要性は全く無かったのだが、エドワードはなんとなく彼女に告げたかった。まるで昔の、それこそ六歳か七歳くらいの頃の悪戯を見逃してくれと懇願するような、そんなどこか懐かしい気持ちの延長にも似ているのかもしれない。
だから、彼女の言葉はとんでもなく意外だった。
「あたしも。……見逃して」
■本文サンプル2■
「アンタの婚約者を攫った不届き者がここにいるんだよ」
攫ってねぇよッ! とエドワードは思わず反論しそうになる。なんでそうなるんだ。誤解だ。こいつが勝手に……。
そう思い至って、いやそうだっけ? とエドワードは自分の思考を打ち消す。誤解か? 勝手にこうなったのか? じゃあ、なぜ手は離れない? 離せばいい。ウィンリィには何の危険もないはずだ。離して、差し出せばいい。問題はアルフォンスだけだ。ウィンリィに関しては、問題は何もないはずなのだ。
それなのに、手は離れない。
声が響いていた。「逃げて」……目の前の幼馴染の意図を掴めないまま、その言葉だけが徐々に身の内を侵食していく。
内心で悪態をつきながら、エドワードはレヴィアという男と対峙していた。銃を向けられているというのに、男は全く動じていなかった。
じりじりと、エドワードはウィンリィを連れて後ずさりする。背後にちらりと目をやれば、うず高く積まれた木箱の影の向こうに、手をあげたアルフォンスの横顔が見えてきた。銃を向けた男達を背に従えながら、糸目のリンが小首をかしげながらエドワードと、そして連れられたウィンリィの姿を見つめる。
「どうして、君がここにいル?」
あ、とウィンリィの身体が大きく震えた。手を離そうとする。しかし、今度は、エドワードが離さない番だった。
「エ、ド……?」
掠れた声をあげながら、ウィンリィは瞠目してエドワードの背中を見つめた。エドワードは答えなかった。男を睨みつけながら、しかしウィンリィの手を離さない。
「あいつの兄ってことは、アンタがエドワード・エルリック?」
蛇は愉快そうに満面の笑みをさらに獰猛に浮かべた。
「『あいつ』の息子かぁ」
ゆらりとレヴィアの身体が揺れたように見えた。振り乱した長髪はまるで棘のように彼の身体の動きにあわせて揺れる。
「光栄だねぇ。……ここで殺しておくかぁ?」
楽しくて仕方ない、とでも言わんばかりに、彼の目が思い切り見開かれる。
「や……」
震えたウィンリィが息を呑みながら声をあげようとする。しかしうまくいかない。銃を構えた男達の真ん中で、声を上げるのにはそれなりの勇気と覚悟が要った。
殺す? 誰が、誰を? ウィンリィの中で戦慄が走る。
「やめて……っ」
ウィンリィはリンの方を振り仰ぐ。手を離さなければと思った。しかし、エドワードは離そうとしない。離して。しかし同時に願っていた。怖かった。だから、離さないで。
震える声をそのままに、ウィンリィはリンに叫ぶ。面識は無かった。写真だけで見知っていた。つい昨日のことだ。
「殺さないで。このひとは、何も悪くない……!」
ゆるゆると、ウィンリィの中で生まれたのは現実だった。エドワードがあたしを攫った? 笑えない冗談だった。事実とあまりに違うのに、そうしか見えないこの状況に心底震えた。守らなければいけない現実を、ようやくウィンリィは思い出していた。
震えながら叫んだウィンリィを、リンは小首をかしげながら眺めた。
「どうして、ここにいル?」
ウィンリィは息を呑んだ。本当のことを言えるのか。逃げ出そうとしていたなんて、言えるのか。しかし、エドワードが攫ったわけではないのだ。自分から、逃げ出したのだ。
「屋敷からお嬢ちゃんが消えたって聞いてね。まさか手引きしたのがこいつだとは思わなかったけど」
親切にもレヴィアがリンに答える。
「違うわ!」
ウィンリィは声を張り上げた。
「エドは関係ない。あたしが、勝手に……」
だから、殺さないで。
そう言おうとしたのに、当のエドワードがウィンリィの言葉を遮るように、唐突に彼女の手を引っ張った。結局離さなかったその手を思いっきり引いて、ウィンリィの身体を自分の前に抱き寄せる。薄い絹の寝巻きの下に、肩を上下させながらこの状況に震えている彼女の身体がある。身体に回した腕に力を込めながら、エドワードは声をあげる。
「……いい具合に人質になるかなって思ってさ」
言いながら、エドワードは手にした銃をウィンリィの喉元にひたりとあてる。
「エ……」
ウィンリィが驚いたように目を見開いて、エドワードの顔を仰ぎ見ようとしたが、エドワードは彼女の身体をきつく抱きとめたままリンに向かって哂う。
「なのにすっげぇ抵抗するからさ、コイツ。アンタの婚約者だって?」
意味ありげな笑みを浮かべながら、エドワードはそろりと手を動かす。
「ちょ……」
腕の中で、ウィンリィの身体がびくりと跳ねる。困ったように顔をわずかに赤らめて、慌ててエドワードのほうを見上げようとした。前を合わせたウィンリィのネグリジェのボタンに、エドワードが手をかけたからだ。何かを伺うように焦らすように、もったいぶりながらも、器用に、背後からひとつだけ、そのボタンを外してみせる。
■本文サンプル3■
放さなければよかった。
最初から、後悔している。
選べば捨てる。彼はそう言った。彼の言葉を、ウィンリィはズルイと思った。しかし。
(ずるいのは彼じゃない。あたしのほうだ)
彼は自分を選んでいるのだ。選んだ上で待ってくれている。だから、ズルイという資格はウィンリィには無い。
それがよく分かっていたから、自分が闇に堕ちたような感覚が、心のどこかにずっと突き刺さっている。
だから、笑えない。
ウィンリィの内心の葛藤をよそに、リンは彼女の顔をじっと見つめた。脇に逸らされた青い彼女の瞳は不安定に揺れていて、少しばかり途方に暮れたように渋面を作っている。唇は一文字に結ばれていた。そんな様子に、リンは少しそそられたけれども、まぁまだいい、と身体を離す。
「少し落ち着いたら、くるといイ。俺は先に行ってるかラ」
彼女が小さく頷くのを確認すると、リンは部屋を出る。部屋の脇にはレヴィアが居る。
「あのチビ」
レヴィアは愉快で堪らないとでも言いたげにリンに言い放った。
「たぶん、来るよ。お嬢ちゃん狙いだろうけど」
リンの表情は極めて厳しかった。
「お前に言われなくても分かっていル」
こりゃ失礼、とレヴィアは肩を竦めた。
「別の男と逢引してる女にお咎めひとつ無しかい? アンタ、寛大だね」
「……今は、ナ」
やれやれ、とレヴィアは腕を組みながら、廊下の壁に寄りかかる。
「ホーエンハイムの息子は手ごわいぜ。……石の存在を信じて疑わない」
「あれなら大丈夫だヨ。お前なんぞに心配されなくとモ。それに、一番目立つところにダミーを置いているんダ。……よもや、見破られまい」
「果たして、釣られるかねぇ」
レヴィアの馬鹿にしたような口調に、リンはいささか眉をひそめる。
「お前は黙って命令に従っていればいイ」
「アンタの部下になった記憶はないんだけどぉ?」
「同じことだ。お前は俺の命令に従えと言われているんだろウ? ならそれを実行するがいイ」
リンの言葉に、レヴィアは頷きはしなかった。しかし、否定もしない。
「エルリック兄弟は必ず来ル。……お前はウィンリィを見張っていロ」
そう言い捨ててホールへと向かうリンの背中を、レヴィアは意味ありげな蛇の笑みを口端に浮かべながら黙って見送った。
「……兄さん。ついたよ」
アルフォンスの言葉に、分かってるよ、と声が返ってくる。声は極めて不機嫌な色を帯びていた。アルフォンスは、隣の席に座るエドワードをちらりと見ながら、はぁ、とため息をつく。
「……まだふてくされてるの」
「ちげぇよ」
違わないじゃないか、とアルフォンスは兄の顔を見ながらまたため息をひとつ落とす。そんな弟をよそに、エドワードはぶつぶつと呟く。
「あいつぅ……ほんと、昔から誘ってんのかっていうくらい意味深なこと言ったりしたりするくせに、肝心なとこでいつも逃げやがるんだよ」
ウィンリィに二度もフラれた直後の兄は話しかけられない位に意気消沈していたが、時間が経つにつれて兄は、どうしてオレがフラれなければならないんだ、と逆ギレし始めていた。
「最初から誘い受けかっていうほどアピールしてたのはあいつだぞ」
無意識か意識してか知らないけれどな、とエドワードはぶつぶつ言っていた。
「……だいたい、最初のキスもだな、あいつがやれって言うから……」
……そういうのは特別な人とやるもんなんだ、と言ったのに、あら、あたしとは嫌なわけ? とウィンリィは怒ったのだ。
『きす、して?』
舌足らずなあの言葉はひどく扇情的な記憶としてエドワードの中に残っていたのだが、幼いエドワードが慌てて拒絶すると、ひどい言い様でウィンリィは彼をなじったのだ。だからエドワードはキスをした。それでもひどく緊張していた。あの頃は、そういうごっこ遊びめいた真似事ばかりしていた。模倣を繰り返すことで大人に近づきたくて、何かを出来るようになった気になりたくて、無我夢中で遊んでいたのだ。今は遊びとは片付けられないほどに、お互いに大きくなってしまったけれども。
しかし、おかげで、あのキスの味は全く記憶に残っていない。
「なのにあいつは、オレに唇奪われたーだのあることないこと付け足して!」
「……それが、ファーストキス……?」
ウィンリィの口ぶりから兄が無理矢理奪ったことを想像していたアルフォンスは呆れたような目をしてエドワードに確かめると、そうだよ! とエドワードは半ば自棄になりながら答える。
「唇奪われたのはオレのほうだっての……」
そう言いながら、エドワードは昨夜のウィンリィの部屋での出来事を思い出してしまって、不意に言葉を失う。憎たらしいくらいに生意気な幼馴染にしか思えないのに、時折反則くさい位に可愛いと思ってしまう時があって、それが交互に押し寄せてくるから叶わない。
「……何が『無理よ』だ。体はそう言ってないくせに」
アルフォンスはそれを聞いて、一体何したんだよ……と半ば呆れたような苦笑いを浮かべたが、エドワードは気づかない。
もちろんエドワードは何もしていないし、ウィンリィの態度のことを言ったに過ぎなかったが、この時アルフォンスに余計な誤解を生んだことをエドワードは知らない。
「で。行くんでしょ」
アルフォンスはちらりと視線を投げる。視線の先には、婚約パーティーの会場となっているホテルだ。既にホテルの周りには、シン人らしき複数の黒尽くめの男がうろうろしている。ホテルの入口からわずかに離れたところに停めた車の中から、エドワードとアルフォンスはずっと様子を伺っている。辺りは既に暗くなり始めていて、ぽつぽつと明かりが入り始めている。
「ああ」
アルフォンスの問いに、エドワードは当然、と頷く。その力強い頷きに、アルフォンスは試しに聞いてみる。
「ねぇ、兄さん」
「アルは、後方頼むぜ」
それは分かってるけど、とアルフォンスは頷いてからコートを羽織って車の扉に手をかけようとする兄に言葉を投げた。
「……またフラれたらどーすんのさ」
兄の話によれば、その中身がどうあれ、兄は形式的にはもう二度振られている形になっているのだ。少しは不安感をもったらどうだろう、とアルフォンスは呆れつつ訊いてみたのだが、エドワードの答えは明瞭に投げ返された。
「あいつに、そんな選択権はねぇよ」
そんな無茶な、とアルフォンスは言いかけたが、兄の背中は既にホテルの中へと消えかけている。