「オレが言うんじゃない。おまえが、言わせるんだよ」
―――「『この世で一番美しいのはだぁれ』って。
真実の鏡は真実しか言わないの」
鏡の中の彼の唇をなぞりながら、ウィンリィは言葉を続ける。
「この鏡は、何も言わないけれど」
皮肉を言うつもりはなかった。ただ時々寂しいだけだ。
彼は言葉以上のものをくれるのに、時々ひどく不安になる。
そんな自分がイヤだった。
(これ以上、欲しがるものなんて)
それなのに、欲深い感情が、
時々どうしようもなくウィンリィを苛んでいた。
(ばかみたい)
戯れに二、三度読んだ御伽噺まで持ち出して、
何がしたいというのだろう。
ウィンリィは自嘲気味に瞳を伏せた。
膝をついて鏡の前にしゃがんだ自分を、
後ろから彼が抱きしめて見つめてくる。
その痛い眼差しに耐えられなかった。
お互いに裸で、それを思い出して、ひどい羞恥が湧き上がる。
「鏡だって、嘘をつくかもしれないぜ」
エドワードが小さく囁くので、
瞳を伏せたまま、ウィンリィは首を軽く振る。
「つかないわよ、嘘は」
ありのままを映すのだ。
(ありのままだけれど、それだけだ)
それ以上でも、それ以下でもない。
■本文サンプル
夢を見た。
それはいつも密やかに横たわっていて、唐突に侵食を始める。油断できない。
暖かな海の中を一人仰向けになって漂っているような、そんな揺りかごのようなまどろみから、エドワードはゆっくりと意識を取り戻し始める。
(気持ち悪い)
まどろみから覚め始めて、最初に落ちてきた感情。そして、何かが零れ落ちたような気がした。ひどく冷たい何かが。
海の底のように蒼く揺れる視界の真ん中に、人影が立っていた。月明かりを蒼く弾いて、黒い影が切り抜いたように立っている。薄くカーテンが開いた窓から零れる光を一身に浴びて、輝くような白い肢体がそこにある。
(……きれいだ)
それは自然に、心の中に浮かんできた形容だった。エドワードは目を凝らす。視界の曇りを拭うように目を何度も瞬かせる。
そこに、彼女がいる。手にしていいのか、いつも迷っていて、それでも手にしてしまった存在が。
*
夜明かりが群青色に沈む部屋の中で、ウィンリィは目を覚ました。ゆるやかに醒めていくまどろみの最中で、徐々に記憶が蘇っていく。
静かに横たわる闇。乱れながらも、裸の身体に巻きついたシーツ。そして、ほのかな温もりを共有する隣の彼。
ウィンリィはようやくはっきりと意識を目覚めさせる。醒めた意識が最初に思い出したのは、つい先ほどまで彼と交わした行為の記憶だった。ゆるゆると身の内に浸透していくその記憶に、ウィンリィは匂い立つような羞恥に身体を焦がす。
ベッドを軽く軋ませながら、上体をゆっくりと起こす。月の白い光が、薄く開いたカーテンの隙間からざっくりと差し込んでいた。そこに切り抜いたようなウィンリィの黒い影が立ち上がる。
「ん……っ…」
身体を起こしたウィンリィの横顔が、わずかに苦痛に歪む。自分のもののはずなのに、まるで知らない痛みが身体を支配していた。手で押さえた腹部に視線を落としたウィンリィは、一瞬目を細める。夜明かりの下に何かを見た気がした。自分の素肌の上に、だ。なんだろう、とは思わなかった。それが自分を焦がす記憶の名残として身体に刻まれたものなのだと分かっていたからだ。
軽く顔をしかめながら、ウィンリィはするりとベッドから抜け出す。隣に寝ているエドワードが起きる気配はないようだった。それでも、ウィンリィはなるべく息を潜めながら、シーツから抜ける。月明かりの下に露になった肌を、真夜中の夜気がぞわりと刺した。それでも構わずに、ウィンリィはベッドから立ち上がる。
眠りの闇に堕ちているそこは、ウィンリィの部屋だった。彼と臥所を共にして、そのまま眠りに落ちたのだ。どうしようもなく記憶を焦がす彼との情事に眩暈を覚えながら、ウィンリィは裸足のまま、床をぺたぺたと歩く。そして、部屋の一隅に置かれた姿見の前に立つ。
鏡はウィンリィの全身を映していた。月明かりの下、ウィンリィは姿見に照らされた己の身体をしげしげと検分するように見つめる。吐く息が鏡を白く曇らせるほどに近づいて、ゆっくりと冷たい鏡面に指を這わせる。
暗がりの中でも、密やかに息づき花開く赤い跡がある。エドワードのせいだった。指をそろりと流れるように這わせて、首筋、丸く膨らんだ胸、鎖骨、腹部…………と、鏡の上を順になぞっていく。ついっとなぞった鏡の上に指先が薄く曇って軌跡を描いた。鏡を見つめるウィンリィの足元には、彼女を象った黒い影が長く伸びている。
『ウィンリィ』
不意に呼ばれた気がした。低い囁き声に、きゅ、と心臓が締め付けられるような気がして、ウィンリィは切なそうに唇を噛み締める。こつん、と鏡面に額をあてて、は、と息をついた。片頬をぺたりと鏡にくっつけて、白く息をはく。
エドワードは寝ているはずだった。蘇る記憶がウィンリィの身を焦がしている。苦しくて切なくて、ただどうしようもなく、心臓の音だけが高鳴っていく。なすすべもなくそれを自覚しながら、ウィンリィはちらりと少し離れたところにあるベッドに横目を走らせる。彼の影がシーツを黒く盛り上がらせている。
たぶん起きないだろう。そうあたりをつけて、ウィンリィはなおもしげしげと鏡を見つめていた。全裸で、何も身に纏わず、鏡の前に立って情事の跡を眺め、反芻しているなどと、エドワードには知られたくなかった。
(ここも……ここにも……)
ゆっくりと視線を下へ下へとおろしていきながら、ウィンリィは小さく息を漏らす。身に昇るのは、羞恥と同時に恍惚でもあった。
(エドの、跡……)
鏡の表面に手をついたまま、ウィンリィは息を乱す。眩暈がしていた。闇に沈んだ記憶に、蘇るのは彼の感触、彼の声、彼の行為ひとつひとつ……。どんな顔をしていた? どんな声をしていた?たどるように反芻していく。は、と息を吐きながら、指を鏡に這わせたまま、ウィンリィはずるずると床に座り込んでいく。
震える睫を伏せがちにしながら、ウィンリィは乱した息をそのままに、切なげに眉をしかめた。身体の奥が疼く。寝ているはずの彼の低い声が、漏らしていた喘ぎが、耳の傍近くで聞こえる気がする。それに震えが止らない。
(どうしよう)
跡をたどっていくにつれて、身体が高揚していく。思い出していく。それにつれて、気持ちがせりあがっていく。「それ」が止らなくなっていく。
だから、彼が音もなく近づいてきたことに、ウィンリィはひやりとした怯えさえ覚えた。
*
「…なに、見てんの?」
低い声が背後から落ちてきた。しゃがみこんだままのウィンリィは、ぎくりと目を軽く見開き、心臓がさらに高鳴るのを感じながら、足元に視線を彷徨わせる。きゅっと唇を噛みながら、感情を押し殺すようにして言葉を搾り出す。
「別に……なんでも、ない、よ」
エドワードはウィンリィの背後にしゃがむようにして、座り込んだ彼女の背中に身体を寄せる。
「……なに?」
不意に後ろから抱きすくめられて、ウィンリィの心臓はさらに高鳴った。壊れてしまったのではないかと思える己の心臓に、泣きたくなる。彼に回されたのは鋼の右腕と生身の左腕。冷たさと暖かさが、裸の胸にじんわりと伝わってくるのだ。鏡から少し身体を離して、回された腕に両の掌を乗せながら、ウィンリィは後ろを振り返ろうとするが、それは阻まれる。
「なにしてた?」
「……」
彼の声はひどく静かだった。それが耳元に直接響いてくる。
「……鏡の前で」
月明かりの下で、鏡に向かって囁くように顔と手と身体を近づけていた彼女の横顔を、エドワードは刻むように見つめていた。青白い光の下だというのに、彼女の横顔は白く、陶磁のような頬の上には、伏せた睫の影の一つ一つさえが黒く象られているほどだった。薄桃に光を帯びた小さな唇が、きゅっと引き結ばれるのをエドワードは見ていた。どこかつらそうな彼女の表情に、黒い翳りのようなものを見た気がして、ひどく落ち着かなかった。
膝をついて、座り込んでしまっている彼女を後ろから抱いたエドワードは、ウィンリィの裸の肩口に顎を軽く乗せるようにして、鏡の中の彼女の表情を覗き込む。
全てを映し出す鏡の中で、青と金の眼差しが揺れるようにかち合う。二人して黙ったまま、しばらくの間、声もなく見詰め合う。
(吸い込まれそう)
金の眼差しに囚われる。ウィンリィはそう思った。彼の瞳は力強い光を帯びていた。射抜かれたら、最期だった。
言えなかった。高鳴る心臓の音が彼に伝わっているに違いないと感じながら、ウィンリィは彼の言葉に答えを与えることが出来ない。
低い声。唇。眼差し。喘ぎ。弄られた身体は全てを覚えている。それを反芻しながら。
(あんたにまた欲情していたなんて)
*続きは本文にて。