イロトリドリノセカイ(「背中越しのキセキ」小説部分サンプル)





「おまえ、散々なこと言ってくれたな」
「え? 何が?」
 ひとしきりジュリアを慰めた後。機械鎧の装着のためにゴンザレスがやってくる時間を見越して、ひとまずウィンリィは病室から退いた。セントラルには数日中には戻るという話を、マスタングから聞いている。その間にゴンザレスと機械鎧の話をするのは魅力的だったのだが、まだ正式な国交のないミロスの民とアメストリス人では、実はなかなかややこしい話にもなりそうで、それが残念だった。今はこうして、国家錬金術師であるエドワード・エルリックの関係者として病院やテーブルシティの出入りを自由にさせてもらっているのだが、ただの一般人ならこうはいかなかっただろう。
 そのエドワード・エルリックが、病室を出た廊下で、壁に背もたれて立っていたのだ。顔は盛大に膨れっ面を作っている。
「あーら、何の話かしら」
 わけわかんないわぁ、とウィンリィはとぼけることにして、背もたれながら立っているエドワードの前をするりと通り過ぎる。病院内は人の姿もまばらで、静かだった。
「とぼけんじゃねーよ! コラ。黙って聞いてりゃ、好き放題言いやがって!」
「立ち聞きなんて、趣味わるーい」
「うるせーな!」
「ちょっと、静かにしてよね。ここ、一応病院よ? だいたい、あんた、アルはどうしたのよ?」
「アルは大佐達とどっかいっちまったよ」
「そうなんだ。あれ、エドは?」
「それがなぁ……テーブルシティの修復だとか言ってたんだけど、オレはどうしても来てくれるなって、あのくそ大佐の野郎が……」
 ぷっとウィンリィは思わず吹き出す。おそらく、エドワードのデザインセンスからして錬金術での復興作業はお断りだ、ということなのだろう。
「あ! てめ! なんで笑うんだよそこで!」
「だってぇ……ねぇ?」
「ねぇ? じゃわかんねーよ!」
 くつくつ笑いを噛み殺しながら、ウィンリィは廊下をスタスタと足取り軽く進む。階段を幾つも昇り、行き着いた先は病院の屋上だった。
「いい天気ね」
 屋上へと続く両開きの扉を押して外に出れば、澄み渡った青空と、乾き切った砂埃の匂いが鼻につく。灰色のコンクリート敷きの床を踏みしめながら、ウィンリィは屋上の外周に配された手すりに背を預けるようにしてエドワードを振り返った。
「だいたいなぁ、おまえは!」
 エドワードはまだプリプリと怒っているようだった。理由なく笑われたのがよっぽど気に入らなかったらしい。
「聞くの忘れたけど、なぁんでこんなテーブルシティくんだりまでいちいち来たんだよ! 普通、セントラルで待つだろうが」
「あら、今さらそんなこと聞く?」
「ったりめーだ! 危ない目に何度も遭ったんだぞ?」
「だってしょうがないじゃない?」
 ウィンリィはからっと笑ってエドワードに告げた。
「あたし、あんたの整備師なんだもん」
「!」
 エドワードの顔の動きが、一瞬すべて固まる。
(アンタノ整備師ナンダモン、だと?)
 それは、もちろんそうなのだが。エドワードは目を丸くして、ウィンリィを真っ直ぐに見つめた。対する彼女は、ニコニコと笑顔を向けて、エドワードの視線を手繰るようにして真っ直ぐに見つめ返してくる。
 そう、それはもちろん、そうなのだ。ウィンリィがエドワードの機械鎧の整備師であることは間違いない。しかし、彼女の言い方はなんだか含みがあるように聞こえてしまって、エドワードは焦った。しみいるような清々しい青空の下で、その空の色と同じ色をした瞳が笑って告げた言葉。
(心配、してくれてたんだよな)
 みるみる胸内に満ちるのは、気恥ずかしさだった。あまり心配かけたくないが、こうして面と向かってそんな類の話を言われてしまうと、彼女が普段はあまり露わにしない表情を垣間見てしまったような気持ちになり、嬉しいのと同時に落ち着かなかった。
「ま、まぁ……おまえの、そういう気持ちも、迷惑じゃないっつーか……―」
 頭をぽりぽり掻きながら言い淀んでいると、それを見越したかのように、ウィンリィはさらりと言い下した。
「やっぱ、心配じゃない? あたしの造った機械鎧が壊されてないかって」
「!!」
 なんだと? とエドワードは一瞬己の聞き間違いを疑ったが、残念ながらそうではないようだ。
「お、ま、え、な……!」
 機械鎧のほうが心配だなんて言われて、うっかり期待に膨らんだ心が切なく萎む。いくらなんでもあんまりな言い草だろ! とこっそり涙目になりながら彼女に詰め寄ろうとしたら、
「バーカね、冗談よ」
 あっけらかんとそう告げられる。
「……!!」
 エドワードは言葉に詰まりながら、仏頂面を浮かべるウィンリィを真っ直ぐに見つめた。どうしたことだろう、今日はひどく調子が狂う。彼女に調子を狂わされている。
「なんだよ。……―おまえ、怒ってンのか?」
「―!」
 何気なく言われたエドワードのひと言に、ウィンリィの青い瞳はふるんっとひとつ震える。
(豆のくせに)
 ウィンリィは密かにひとりごちた。
(こういう時だけ、勘がいい。こういう時だけ、冴えてる)
 それが、悔しい。
「―別に。怒ってなんかないわよ」
 視線をふいと逸らして、唇を尖らせる。ああ違う、本当はこんな風に冷たく言いたいわけじゃないのに。どうしてこんな言い方しか出来ないんだろう。
「……あっそ」
 エドワードは両目を細めるようにしてウィンリィを胡乱げに一瞥した後、くるっと踵を返す。
「わーったよ。もう」
 調子が狂う。狂わされる。それ以上、向き合うのは無理だ。なぜか本能的にそう思った。なぜだかわからないが、これ以上彼女の相手をするのは無理だと思ったのだ。これ以上、調子を狂わされたくない、と。
 踵を返した彼の赤い背中が、風に煽られるようにして目の前で翻る。ウィンリィは思わず見入っていた。
 赤いコートの上に刻まれた蛇の絡まる十字架。まるで彼の象徴ともいうべきその赤い背中を、吸い込まれるように見つめる。彼が立ち去って行く、とウィンリィは理解していた。遠のく背中がそこにあった。手が届きそうでいつも届かないその背中が。
(あの背中に触れてしまった)
 くんっと心臓の鼓動が跳ね上がる。ミロスの谷底へと降下する間際に、彼が示した背中だった。掴まれ! と言われて、無我夢中でしがみついた。彼の背中に触れて、身体いっぱいで感じながら、彼もろとも落下する。顎を彼の肩にくっつけるようにして見た視線の先には、踊り跳ねるように景色が次々と色を変えた。
(触れたいのに、本当は触れちゃダメだって思ってたの。なのに、掴まえることが出来るんだって、ようやく知ったのよ)
 もし、その背を見ない日が、肩を並べて前を見る日が来たら、見える景色は何色なのだろう。この翻る赤に代わる世界の色は。
 ウィンリィは思わず足を踏み出していた。制止する前に、身体は希求して、手に入れたがっていた。まだ見たことのない世界の色を。
「!」
 エドワードの金色の瞳が、大きく揺れながら見開かれる。淀みなく進んでいたはずの足が、自然と止まってしまった。
「なんの、つもりだよ」
 身体の前に回されている、自分のものではない腕が見えた。背後から彼女にしがみつかれている、ということをようやく悟って、エドワードの思考はゆるゆると混乱を始める。背中越しに感じる温かみが、混乱と同時に知らない情動を加速させる。跳ね上がる心臓に、緊張のせいか熱くなっていく身体、乾いていく喉。体内にこんなにも熱があったのだろうかと不思議になるくらいに、熱くて眩暈がする。
「何よ、照れてるの?」
 背中越しにくぐもった彼女の声が響いた。
「まえもこうしたじゃない」
 いや確かにこうしたけれども、とエドワードは心の中で頷くと同時にそういう意味じゃないだろ、と反論する。しかし、石でも呑んだように身体は動かなかった。緊張の走った身体は、しかしやはりゲンキンな物で、背中をめいっぱい使って彼女の感触を確かめてしまっている自分がいる。全身が目となり耳となり、ウィンリィの一挙手一投足を感じていた。
 掴まえた赤い背中は、やっぱり大きい。両手を広げ、抱きつくようにして腕を彼の身体に回した。跳ね上がる鼓動を耳裏で聴きながら、ウィンリィは彼の肩口に近い場所へ片耳を押し当てる。
 置いて行かないで。
 胸に落ちた言の葉を、ウィンリィはそのまま胸に仕舞う。そんなこと言いたくなかった。それは、あまりにも彼を引っ張る言葉だ。待ってるだけしか出来ないなんて、今は思いたくない。どんなに離れた場所にいても、今自分が出来ることを精いっぱいやりたかった。それがひいては彼と彼の弟の道を造るためのひとかけらの標になってくれればそれでいい。それ以上は望まない。
 それでも悔しいと思ったのは事実だ。大きくなっていく背中は、どんどんどんどん遠くなっていくかもしれない。ウィンリィのあずかり知らぬところへ、どんどん遠のいていってしまうかもしれない。同じ世界を見たい、と願うのは無理なのか。背中越しではない世界を、あんたが見ている世界を見ることは叶わないのか。叶わないなんて、思いたくなかった。
 だから、ウィンリィは告げたのだ。まさにこれが、今自分の気持ちに一番しっくりくる言葉であると信じて。
「待ってて。……ううん、待ってなくてもいいから」
「は?」
 赤い背中に告白する。宣戦布告する。この先何があろうとも、立ち止まったりしない。自分の前にある道を、ただひたすら真っ直ぐに歩いていく、走っていく。その先に、あんたの背中があると知ってるから。
「きっと、絶対、追いついてみせるから」
 遠のく、赤くて愛しい彼の背に、そう告げた。

 これは、その感情がどこから由来するものなのかウィンリィ自身ですら自覚していなかった頃の話。






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