「同じ景色を見ていたい」



とある夜明け前の兄弟の話。雪男の眼鏡に燐がしたこと。
ぬるい性描写有りにつき苦手な方はご注意ください。





 目覚めたら、隣にいるはずの雪男がいなかった。


 弟の雪男とシェアしている寮の部屋は、朝靄のかかった群青色に支配されている。カーテン越しの明かりは薄暗く、まだ夜明け前であることが分かった。
(雪……どこだ?)
 身体に甘い疼きが奔る。痛いほどに甘いその快感の残滓に眩暈を覚えながら、燐はベッドに横たわったまま、うろうろと視線を泳がせた。
 昨夜、ベッドを共にして、雪男に抱かれた。いつになく激しい弟の行為に、思考は追いつかないまま、ただただ与えられる快感に見境なく溺れた。お陰で、途中から記憶がない。靄がかかったような頭を軽く押さえながら、燐は雪男の姿を探す。ベッドの中で分かち合ったのは二人分のぬくもりのはずだったのに、こうして弟がいないとわかると胸のどこかにすぅっと孔が空いたように空虚な気持ちに襲われる。いないのは、不安だった。
 すぐに目に留まったのは、弟の形をくり抜いた黒い影だった。勉強用にと部屋には机と椅子が据えられている。その椅子に雪男はどっかりと背を預けるようにして座っている。
「……ゆ」
 名を呼びかけて、燐は途中で声を失う。
 雪男は脚を組み、椅子に背を預け、喉をのけぞらせるようにして真っ直ぐに天井を仰いでいた。眼鏡はかけていない。両腕には力がなく、身体の横でだらりと伸びている。
(なに、見てるんだ……?)
 燐はシーツにくるまったまま、息をひそめて弟を伺った。辺りは薄暗かったが、斜め後ろから垣間見えた雪男の表情がどこか辛そうに歪んでいるように見えて、燐は声が掛けられなかった。群青色をした朝の静謐に包まれた部屋の中で、雪男の後姿はどこか近寄りがたく、しかし冴え冴えと冷たい群青を背負うその後姿は凛としていた。
 情事の後、弟が何を想い、なぜひとりベッドの外にいるのか、燐にはわからない。
 吐息すら拾われてしまいそうなほどの静寂が横たわる部屋の中で、燐は雪男の背を見つめた。
 よくなかったのだろうか。
 燐は昨夜の記憶を脳裏に呼び起こし、ひとり赤くなる。燐は無我夢中だった。雪男が行為のさなかどんな顔をしていたか、どう思っていたかなんて、おもんばかる余裕すらなかった。
 昨夜の甘い行為とは裏腹に、背を向けた雪男の厳しい表情はどうだろう。弟が何を思っているのか、燐にはわからなかった。
(いつも、そうだ)
 雪男の背を見つめながら、燐はふと想う。
(こいつは、何でもひとりで決めて、気が付いたら置いてかれちまってる)
 医者になりたい、と決意し、正十字学園にトップの成績で入学した。かと思えば、燐のあずかり知らぬところで祓魔師になって、祓魔塾の先生として燐の前に現れた。
(俺のほうが、兄貴なのに)
 燐は唇を噛む。雪男の背中を、穴があくほど見つめた。見つめることしか出来なかった。
(いっつも、先を行ってんだよな、お前。いっつも俺、お前の背中ばっか見てんだよな)
 雪男は幼い頃から悪魔が見えていたという。生まれたとき、他でもない燐から受けた魔障が原因だった。
(だとしたら、俺が原因って、ことだろ?)
 幼い頃から悪魔が見えていた雪男は祓魔師にならざるを得なかったのだ。その原因を作ったのは、他ならぬ兄である自分だ、と燐は想っていた。燐のせいで、雪男は悪魔を見るしかなかった。見たくないものを見ることだって多かったはずだ。でもそんな事実を一切燐に打ち明けることなく、雪男は祓魔師になってしまったのだ。巻き込んだのは俺だ、と燐は切々と自覚している。
 なんでも先を行ってしまう弟が、燐は切なかった。少しは自分に見せてくれたっていいではないか。少しは愚痴ってくれたっていいではないか。『悪魔が見えるんだよ』って幼い頃、一言でもいってくれたら良かったのに。そんな気配は一切見せてくれないのだ。
(俺は)
 燐は唇を噛みながら、ふとひとりごちる。
(お前が見てるもの、見たいのに)
 サタンをたおしたい、それも目的としてある。だが、もうひとつ、燐は想うところがあった。背中を向けてどんどん先を進んでしまう弟が見ている物が何なのか、抱えている物がなんなのか、知りたかったのだ。分かち合いたかったのだ。
 それなのに、朝靄の中で何かを想いながら雪男はひとり座っている。身体を重ねて、これ以上ないほどに近づき合ったはずなのに、雪男はまだ自分に見せてくれない一面がある。……夜明けが近づく部屋の中で、雪男が何を想うのか、燐は知りたかった。
 ふと雪男の眼鏡が視界に入る。情事の前、雪男が邪魔だからと外した眼鏡が、枕の横に置かれたままになっている。
 おもむろに、燐はその眼鏡に手を伸ばす。シーツの衣擦れの音に、はたと我に返ったように雪男が振り向いた。
「起きてたの?」
「……ああ」
「………なに、してるの?」
「……」
 雪男の問いに、燐はすぐに答えなかった。ただ黙って、雪男の方を真っ直ぐに見つめる。見つめようとしたが、しかしうまくいかない。視界はぼやけ、何もかもがぐちゃりとつぶれたようになっている。
 戸惑ったような顔をして、懸命に視点を安定させようと試みる兄の姿に、雪男は思わず苦笑を漏らした。椅子から立ち上がり、燐のほうへ近づく。
「近視じゃないとうまく見えないと思うよ。……兄さん、目は悪くないでしょ?」
 ついと手を伸ばして、兄の顔にかかった己の眼鏡をとろうとする。どうして兄が、突然自分の眼鏡をかけようとしたのか分からなかったが、あまり気にも留めなかった。
 しかし、眼鏡をとりあげようとした雪男の手を、燐はむんずと掴む。
「わかんねぇんだ」
 燐は雪男の顔は見上げずに、眼鏡に伸ばされた弟の指先をじっと見つめる。景色は相変わらずボヤボヤとしていて、綺麗に見ることは出来ない。弟の言う通り、燐は近視ではなかったし、眼鏡も必要ではなかった。それでも掛けてみたくなったのだ。
「わかんない、って、何が?」
 とられた手をそのままに、雪男は静かに兄に問う。ただのオフザケかと思ったのだが、どうやら違うらしい。いつになく生真面目な表情を浮かべた兄を真っ直ぐに見下ろした。
「お前が、何見てるか」
「……」
 何のことだ、と雪男は目を瞬く。しかし兄はいつになく口数少なく告げた。
「だから、お前の眼鏡かけたら、お前の見えてるもの、見えねぇかなって」
「……」
「でも、……だめだな、俺。わっかんねーみたい」
 ただただ、好きな人と同じ景色を見たいだけ。それなのに、叶わない。
 雪男は目を丸くする。こくんと息ひとつ呑んで、とつとつと言葉を紡ぐこの愛しいひとを声なく見つめた。
 兄は多くを語らない。それでも、何を言わんとしているのか、雪男にはなんとなくわかったのだ。
「……バカだね、兄さん」
 つと歩み寄って、ベッドの上に座り込む兄と視線の高さが合うようにしゃがみこむ。青の視線が、空中でカチリと噛み合う。
(僕は)
 燐の顔を真っ直ぐに見つめながら、雪男は切々と刻むように心の中で呟く。
(願わくば、あなたに何も見せたくなかったのに)
 悪魔のことも、出生のことも、出来ることなら燐には知ってほしくなかったのだ。見なくていいと思っていた。何も見ないで、何も知らないでいてほしかった。だが雪男の願いも虚しく、義父の予言通り、兄はすべてを知ってしまう。そしてすべてを知った上で、祓魔師になると言い出してしまった。もう止まらない。止められない。運命は走り出してしまったのだ。
「バカって、なんだよ」
 燐は唇を尖らせて弟に抗議しようとする。しかし雪男の行動は早かった。眼鏡をとろうと伸ばした手を遮った兄の手を逆に握り返す。空いたもう片手で兄の顔にかかった眼鏡をあっという間に取り去った。
 なにすんだ、と燐が声をあげるよりも早く、キスが落ちてくる。
「キスするのに、邪魔でしょ、眼鏡」
「ゆ、き……」
 二人の身体が一緒くたにシーツの上に沈む。
「俺、話、終わってな……」
「うん、知ってる」
 燐は顔を真っ赤にして抵抗する素振りを見せる。しかし、雪男は押し倒した燐の身体をまさぐり始める。
「いいんだ」
「ゆき……?」
 キスの雨を降らせながら、雪男は告げる。
「兄さんは、なにも、みなくて、いいんだ。今は」
 今だけは、忘れて?
 優しい兄が何を想って自分の眼鏡を掛けるなんてことをしだしたのか、雪男には痛いほどに分かった。それはかつて、雪男もまた同じように願ったことだったからだ。義父は幼い雪男に言ったのだ。いずれ兄は恐ろしいものを見ることになる、と。雪男よりも誰よりも恐ろしいものを見ることになると。
(だから、祓魔師になろうと思ったんだ。あなたと同じものを見ても臆せずあなたを守りたかったから。……あなたと、おなじ景色を見たかったから)
 それと同じことを、兄が想ってくれている。それが雪男には嬉しかった。
(敵わない)
 やっぱり、兄さんには敵わない。
 雪男はこっそりと目を細める。嬉しさのあまりに漏れ出た笑いを堪えるのに必死だった。なんで笑うんだ、と兄に聞かれたくないから、なんとか堪える。
 優しすぎる兄に、自分がたった今出来ることはなんだろう。
「ゆっき……ちょっ…また、すんのか、よ…!?」
 は、は、と息荒くなっている兄の顔は、既に桃色に蒸気している。
「うん」
 悪びれなく雪男は頷いて、燐の首筋に吸い付き始めた。ちゅ、ちゅ、とすでに付けた赤い跡の上を重ねるようにして唇を這わせる。
 優しすぎる兄に今自分が出来ること。それは、走り出したこの運命の狭間で、忘れる時間を与えてあげることだ、と。
(だから)
「みなくていいよ、兄さん」
 兄の耳の傍に唇を寄せて、低く囁く。
「なに、が……っ」
 既に息があがり始めている燐に、雪男は笑いながら兄の身体を押し開いた。
 互いに同じ景色をみていたい。走り出した運命はもう止まらない。だからこそ、今この瞬間は、自分と二人きりの時だけは、見なくていい。忘れていい。忘れてほしい。
「見せないよ」
 どこか意地悪気な笑みを浮かべながら、雪男は宣言する。この運命の中で、同じ景色をみていたいからこそ、今自分が見ている物は絶対に。それが兄さんを守ることだから。
「兄さんには、絶対に、見せない」
 おまえ、と言いかけた兄の唇を強引に塞ぐ。あ、とあがる声はひどく艶がかっていて、いやらしく雪男の耳裏に届いた。
 何隠してる、と言いたかった言葉は声にならない。身体を割られて、押し入ってきた雪男を受け入れる。
「お、ま、え……」
 身体を激しく揺さぶられ始める。半ば無理やり引きずり出される快感に、もうすでに溺れ始めている自分を力なく自覚しながら、燐は悔しげに呟いた。
「おまえ、ずる、い……!」
 自分はただ、同じものをみていたいだけなのだ。でもやっぱり、雪男は見せてくれない。それどころか、見せてなんかやらない、などと雪男は言う。しかし、告げられた言葉は冷酷な内容のはずなのに、それを告げた雪男の声も顔も身体のぬくもりも、燐にとってはなぜだかすべてがどうしようもなく優しすぎて、そのことが身を斬るほどに痛く切ない。
 ずるい。その言葉に対する雪男の言葉はそっけなかった。「そうだね」と弟はそれだけを低く呟き返す。
 しかし、そう告げる雪男の顔はどこまでも優しかった。どこまでも優しい顔で、燐を突き放す。同じ景色なんか、見せてやらない、と。身体はこれ以上ないほどに密着させているのに、突き放されてしまう。
(やっぱ、ずりぃ)
 悔しげに涙をにじませながら、しかし、燐はとめどなく与えられるその快楽を前にして、なすすべなく溺れていった。




(おわり)


2011.6.3 サイトにアップ



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